ことはみんぐ

演劇、美術、ミステリ、漫画、BL。趣味の雑感。

ハムレット2015(過去ログ)

公演概要

演出:蜷川幸雄

作:ウィリアム・シェイクスピア

訳:河合祥一郎

出演:藤原竜也満島ひかり鳳蘭平幹二朗、横田栄司他

敬称略

蜷川幸雄80周年記念作品 ニナガワ☓シェイクスピア レジェンド第2弾『ハムレット』|彩の国さいたま芸術劇場

 

以下、2015年2月28日にTwitterにて掲載した過去の観劇レポとなります。

 

観劇公演

2015年2月25日マチソワ

梅田芸術劇場ドラマシティ

 

 注意

 

まず印象的だったのが、最初、ずっとハムレットが泣いてることだ。2003年のはたしかに哀しげではあるし、沈んではいるけれど、ホレイシオに再会したときは嬉しそうでその嬉しさのほうが哀しみより勝っていた。でも、今回はホレイシオがきてくれたことでずっと抑えていた父への思慕がさらに表面化したようだった。
きてくれて嬉しい。でもそれによってさらに哀しみを意識し、一瞬の喜びからまたどん底の哀しみへと翻る。弱みを見せてもいい友人がきたからなのだと思うけれど、その流れが胸に迫った。
今回のハムレット父親への思慕が常につきまとっていた。一気に飛ぶがガートルードとのシーンで父親を男の中の男と評すところがその象徴になっていると思う。

そして全編を通して抑揚の付け方が良かったと思う。NEWSZEROの特集を見たときに常に感情を爆発させるのが持ち味というような言われ方をしていた竜也さんに対して蜷川さんが飽きません?竜也の演技にとおっしゃっていたけれどそれをまず乗り越えた部分がそこなのかなと思った。
トーンの落ちる、静かなシーンが本当に翻るように切り替わって劇的で惹き込まれた。動の演技はたしかに竜也さんの持ち味で圧巻だけれど、静の演技での抑えたトーンはより胸に迫る。でも、動の演技のなかでも抑揚が効いている箇所というものもあって、亡霊に手招きされてホレイシオたちを振り切って「着いて行くぞ」というあのせりふもそれまでの激高から一瞬で低く重くなる感じが印象的だった。
静と動の切り替え、静の演技がすごく良かった。

 

次からは少し気になったところを細かくわけて列記します。

 

□ガートルードとの寝室でのシーン

日経の劇評がでたときに近親相姦というものがクローズアップされているような見出しを見たのだけれど結局ネタばれと印象を引っ張られることが嫌でまだ読んでもいないのだけど、決してガートルードとのシーンでもハムレットとガートルードによる母子での近親相姦をにおわせるような雰囲気は感じなかった。たしかに形としてはセックスをそのまま、暗喩にしてはあからさまに表現した演技だったけれど、それは決して母子における近親相姦の暗喩にはならないと私は思った。あれは、演劇的に解りやすく印象的にさせる手法であって、ハムレットが母に型としてのセックスを見せつける部分はむしろ母に父=死んだ夫を裏切り、父の弟=義弟と血のつながりはなく義理ではあるが姉弟である相手と近親相姦の罪を犯していると見せつける、見せしめとするための手段だと感じた。ハムレットにとって父が至高の存在で、母にとってハムレットがずっと愛する我が子だからあのシーンは近親相姦をにおわせるものではなく、父と子、母と子の思いがすれ違いながら交錯するシーンだったと思った。
そして2003年版ではおやすみなさいという度に母親にすがりついていたハムレットだったけれど、おやすみなさいとひとり静かに告げながら激昂したセックスをにおわせるような型の演技ののちはたしか母親に触れることはあまりなくてそれも静かな抑えた演技となっていてこのハムレットは確かに生きる上で迷いを抱いていてもひとりで立つひとりの男なのだと思わせた。

もともと2003年版を見たときにもあのシーンは母子にしてはかなりべったりで過剰なマザコンだとは思ったけれど近親相姦のイメージはやはりなくて日経の劇評で近親相姦がキーワードにあげられていたことに違和感があったのだけど今回の2015年版でもやはり自分の印象としては近親相姦ではなくて戯曲を読んだ印象とも矛盾しなかったのであとで日経の記事を読んでまた検証したい。

 

 

□劇中劇後クローディアスが懺悔しようとするシーン
まずここで押さえておかなければならないことは、当時のカトリック文化において現世での罪や汚れというものは生前、死の間際において神の前で告解し罪の赦しを得ておかなければ天国に上ることはできないと考えられていたことだ。これが普通に今の日本人には馴染みがないからそれをつい忘れてしまうとこの場面での劇的効果が薄れるのでもったいない。
まあ、冒頭で亡霊がちゃんとお祈りをしないで死んだから地獄の業火に焼かれて苦しんでると言っているけれどやはり文化が違うことで上手く繋がらないと可能性があるためそこがやはり少しもったいないなと思った。100分で名著を読んでから見た人はこのシーンの効果にも気づけたと思うけれどみんながみんな読んではいないだろうし、みんながみんな解ってみていたともやはり思えないので少しもったいないなと思った。
それはともかく、このシーン、平さんが本当に良かった。水をかぶるところもすごく驚かされたけれど、それよりもハムレットが結局祈りの最中のクローディアスを殺しても罪を払って天国に上らせてやることになるからと振り上げた剣を下ろして去ったあと、思いが込められていない祈りではなんの告解にもならず、自分が犯した罪が水に流されることは、たとえ何度冷水を浴びてもないと思い定めるとき、ああ、ここでハムレットはクローディアスを討つべきだったと本当につよく思わされた。2003年版を見たときも一応、背景は解ってみていたのでここで討っておけばよかったのだと後々解る仕掛けになっているということは解っていたのだけれど、それを強く意識させることはあまりなかった。それは役者の強さみたいなものの違いでもあるのかもしれない。平さんはちょっと威厳が強すぎてクローディアスの嫌らしさというか脂下がった部分が薄れがちだと思ってみていたけれど、このシーンだけは別だった。この人だからこのシーンにおけるハムレットの手抜かりというべきか、思い切りのなさというべきかクローディアスの心を読み切れなかった運命というかそういう部分がより際立って印象的になり、のちの惨劇がより哀しく惨く感じられるようになっていると思った。

 

□オフィーリアの狂気
梅芸の25日昼夜の二回を観たわけだけれど、まず、マチネでは父親を殺されて気が狂ってしまったオフィーリアが王と王妃、兄レアティーズに花を配るシーンで実際に花を手に持って配っていたけれど、ソワレでは花を持たずに架空の花を持っているという体で配る真似をしていた。これはアクシデントではなく花を持つバージョンと持たないバージョンの二種類の演出があったらしい。個人的には花を持たずにこれはローズマリーとかパンジーとかなにもないのに王や王妃、兄に渡してみせる演技のほうがより狂気を意識させてよかった。
これは個人的な好みの問題だけれど、装置や大道具小道具は極力削ぎ落としてしまったほうがより舞台に立つ役者の存在感やその生のきらめきというようなものを感じられる気がするので私は好きなのだと思う。あと、何もなければそこは想像力を刺激するからそういう部分も楽しい。何かがあればそれだけ縛りがあることにもなるからだ。

 

□フォーティンブラスの小声
小声だった。血気盛んで堂々たる王子というイメージにそぐわないか細い声にすごく驚かされた。けれど、フォーティンブラスが話し始めた途端、会場がしーんと静まった。あの瞬間だけはだれもが聞き耳を立てたのが解った。それはかなり劇的な効果だと思う。でも、後ろの方の席の人にまできちんと聴こえたのかはなぞだ。ほんとうに小さな声でせりふが解っていても何となくしか聴こえないし、マチネは7列目だったからかなり近かったけれどそれでもかなり小さいと思った。でも、そんなか細い声で決して生気に満ちているという雰囲気でもないフォーティンブラスだけれど、その配下のかなりの荒くれ者にも見える屈強な兵士たちがその小さな一声でなんの不満もなく動くさまというのはたしかフォーティンブラスにハムレットが認めるだけの王としての資質はあるのだと知らしめていた、の、かもしれない。ちょっと不安にならないこともないとやっぱり思ってしまったけれど。


その他、気になったこと。

 

□オフィーリアの演技
気が狂う前の前半、とくにハムレットがおかしくなったと父、ポローニアスに報告するまでの声のトーンが2003年の杏ちゃんとよく似ていた。蜷川さんはよく稽古のときに音が違うというような言い方をされるのを耳にするけれど、そのせいかなと思った。音程が似ているような感じに思った。けれど、後半の気が狂ってしまってからは満島ひかりオリジナルか、演出がかわったのか似ているという印象はあまり抱かなかった。
それからオフィーリアのせりふで気になったのが初めのほうのシーンで兄レアティーズを見送ったのちに父ポローニアスからハムレットにはもう会ってはならないと言いつけられ、素直に承諾を返すときの言い方だった。2003年のときは少ししょげたように少し哀しげにそれでも言いつけは守らなければならないという意識で従うようだったけれど、今回はもっと軽やかな感じだった。ごまかすように笑っているというイメージなのかもしれないけど、オフィーリアがちょっと楽しげにも見えるように笑っていたからそれがイメージと違っていた。
あと、満島ひかりマクベスの妻をやってほしい。きっと似合う。今すぐでもやれると思う。それから、ガートルードもいつかやってほしい。もう10年もすればできるはず。どちらもやるならとても観たいと思った。

 

□こいつは苦いぞニガヨモギ
劇中劇で間の手にハムレットが入れるせりふだけれど、これアブサンが頭に浮かんで皆既食を思い出した。観てないし、まったく関係はないけれど。つい、ね。つい。

 

□おそらくイングランドに流されるときの効果音
出航し海賊に遭遇したというくだりだったと思うのだけど、効果音としてなぜか飛行機のエンジン音?プロペラ音?みたいなものが入っていた。この時代に飛行機はないけれど、舞台が日本でハムレットが初演された当時の長屋をイメージしているということや、衣装やトランクのイメージも20世紀初頭くらいということなのかと思っていたので、その時代へのオマージュみたいなものもあるようだからそういう意味合いを含めていたのかなと思った。

 

□オズリックのレアチーズ呼び
レアティーズと剣の試合をしてほしいとハムレットのところを訪れる道化者役割のオズリック。道化者らしくレアティーズのことをレアチーズと呼んでいたわけだけれど、ここ、たしかに笑いどころとして設定されている場面なはずなのにそんなにめっちゃ皆笑わないんだな、と思った。マチネにいらしていた吉田鋼太郎さんは笑ってらしたとフォロワさんのレポで確認したけれどここ笑いどころだよなーと思いながら私も笑っていたけど観客はそんなに笑っているという印象がなかったのですこし不思議な気がした。

 

□アクシデント
25日マチネでは尼寺へ行けのシーンでハムレットが走り回りながら背景の長屋の扉を順に開けて行く動きがあるのだけれど、正面の扉がどうやら上手く開かなかったようで何度か半分くらいまで開けたり閉めたりばたばたさせながら開かねぇじゃねぇか!的に戻ってくるシーンがあったのだけど、ソワレでは普通に開いていたのでどうやらアクシデントだった模様。ST映画の赤城さんがドアでおでこをぶってキャップにキャップもおでこをぶつけろ!と強要しようとするシーンを思い出した。ドアぱたぱた。


全体として。

さい芸では観ていないのでさい芸からどれくらいかわっているのかは解らないけれど2003年版と比べるとかなりのせりふが削られていて雰囲気もかなり違う。
今回はだいぶ装置や大道具が用意されているからより説明的な舞台になっていると思う。実は個人的には金網だけでほとんど装置や大道具のなかった2003年版のほうがよりストレートに人間による演劇という感じが好みではあるけれど、背景が長屋だったり劇中劇が雛飾りだったり面白い舞台造りではあったと思う。
でも、演技というものを抽出して観たら今回の方がより練られていて、胸に迫るものがあった。それは生で観たということも大きいのかもしれないけれど、やっぱり竜也さんが十二年を経て身につけてきたものが生かされているからだったらいいなと勝手に思っている。


ただでさえ、舞台というものは強い。人間がそこに立って確かにそこで生きているというその感覚がものすごく強く胸を打つ。なのでなにが一番よかったかというとそこに藤原竜也というひとが存在しているという事実かもしれないとも思った。でも、舞台が始まったらすぐに竜也さんは消えてハムレットになった。真っ暗ななかでバーナードが叫ぶ。だれだ!その瞬間に惹き込まれた。簡単にその世界に連れてかれてそのあとはずっと物語を追っていた。
ほんとは竜也さんがこれからどうなっていくのかというヒントをもらいたいと思って観にいったけどそんなことも忘れてしまった。二度観たけれどどっちもただ物語に惹き込まれて舞台演劇という世界に連れてかれてただ楽しんでしまった。
でも、すごかったよ。ほんと、観られてよかった。もっともっと何度でもみたいと思ってしまった。もう観られないことが寂しくて仕方がない。
やっぱり生の強さは違うね。今もまだ少し冷静じゃなくて思い出すとなみだがでるのでそれをどうにかしてほしい。

以上。まじめな観劇レポでした。
基本的にシェイクスピア戯曲というものを読むのが嫌いじゃないのでそういう部分を踏まえたレポなので真面目です。すみません。


25日に観劇に行けたのも、マチネのすばらしきチケットを入手できたのも私のちからじゃなくて全部フォロワさんのおかげだったので本当に感謝しかありません。ありがたくてありがたくて、本当にありがとうございました。