ことはみんぐ

演劇、美術、ミステリ、漫画、BL。趣味の雑感。

身毒丸復活DVD(過去ログ)

DVD概要

演出:蜷川幸雄

作:寺山修司、岸田理生

出演:藤原竜也白石加代子

敬称略

藤原竜也×白石加代子 身毒丸 復活 特別版 [DVD]

藤原竜也×白石加代子 身毒丸 復活 特別版 [DVD]

 

以下、2015年4月5日にTwitterに掲載した過去のDVD鑑賞レポになります。

 

注意

  • 何の気遣いもなくネタばれしています。

 

おすすめを頂いて身毒丸を見た。復活の方。

まず、この物語は夢だ。夢とまぼろしのスペクタクル。最後終わって暗転してそのまますっぱりこれでおしまいとなった方がいいんじゃないかと思うくらいに夢の話だった。カテコもきちんと映像には収められているし、実際劇場ではカテコがあるのが当然なのだけど、カテコはないほうがむしろこの物語は成立するんじゃないかと思った。そういう夢とまぼろしの話だ。

とある漫画の影響から能を見るようになって身毒丸の元ネタのひとつ弱法師と弱法師から派生した浄瑠璃の話(継母が実は俊徳のいのちを狙う嗣子になれない妾腹の兄から俊徳を守るために俊徳を折檻して家から追い出した、みたいな話)は実は前から知っていた。それが身毒丸の元ネタになっていることは身毒丸ってどんな話だっけと思って調べてから知った。だからなんとなく流れは解っているような感じで見た。

最初、実の母に会いたいからと母に会うための汽車を探すしんとくが現れるシーン。最初のせりふ。これは十四、五の演劇初心者の藤原竜也がやるべきものだなと強く思った。言い換えると実はちょっと薹が立ちすぎていると思ってしまったのでなんというかちょっとごめんなさいです。でもその違和感は最初のうちだけだった。家族合わせ?だっけ?カルタみたいなトランプみたいなのを二階から投げるシーンくらいまででそのあとは違和感を覚えることはなかった。そのあたりから物語に入り込んだのかもしれない。
少し前後するけれど、そのカルタのシーンの前、しんとくの入浴シーンがあるわけだけど、そのとき家のなかでは撫子がしんとくの父にただ母であればいいといわれて妻である必要を否定されていてでも撫子は自分でお腹を痛めて子を産むことを願っていると吐露する。その直後、風呂から上がって半裸のしんとくを撫子は見つける。もともと母になるために買われてきた撫子がしんとくの存在を意識していなかったはずはないけれど、そのとき、たしかに撫子はしんとくを見つけたんだと思った。強制的に母にさせられた撫子が半裸のしんとくを見て自分の本当の子を胸に抱くことができるとすればその子の父親は自分を老人だというこの家のお父さんではなくてしんとくなのかもしれないと考えた瞬間だったと思った。そして、さらに話が遡るけれど、母を売る店で撫子をしんとくが見つけたシーンとその入浴後のシーンが対になっているんだろうなと思った。互いが互いを勝手に見つけて勝手に胸に刻んだ冒頭の二つのシーン。どちらのシーンもそのまま心情を説明することなくぶった切って次に進んでいく。だからやっぱりこの二箇所は対になるんだと思う。
そしてその心情を説明しないことがのちのち、しんとくの目を潰し、撫子の連れ子がしんとくにおそらく殺され、一家離散の悲劇に繋がっていくんだと思った。

 

そしてあの黒い小箱だ。あの黒い小箱に入っていたのは本当に夢なんだ。そんなものはないって撫子はいうけれど、あの小箱には夢が入っていた。撫子のまぼろしの夢。自分で十月十日胎内で守り育てた子をはぐくむ夢。あの箱を開けるまではたしかにあった。しんとくは自分の本当の子どもではないけれどあの箱が開けられなければそうである可能性がのこされていた。おもちゃのちゃちゃちゃとかシュレティンガーの猫みたいなものだ。開けて実際に見てみるまではなにが入っているか本当のことはだれにも解らない。でも小箱はしんとくが開けてしまう。その瞬間の絶望は深い。深すぎるほど深い。だから撫子はしんとくの目を潰すことになる。撫子にとってしんとくは胎内に身ごもった子どもではないはずだけれど、そうでもあり、継子という息子だけれど、自分に夢イコール本当の子を産み育てる本物の母になる可能性を与える存在でもある。それは恋いこがれる存在でもあり愛する相手でもあり、たぶん、そのどちらでもなかったりもするんだと思う。でも、こういう部分は母親という人種とそうでない人種では受け取り方の深さに差がありそうなので私がこう見えたのも母親じゃない人間だからこう見えてるだけで母親であることを知っている人にはまた違う見え方がありそうだと思った。

藤原竜也は十四、五で蜷川さんで身毒丸なんてやって人間狂ってなきゃおかしい(かなり意訳)みたいなことをだれかに言われていたけれどまあその通りだよね。撫子と同じ着物で盲目のしんとくが弟の前に現れるシーン。冷静になって物語から抜け出してみるとあれも十四、五でやってるんだと思ってちょっと頭を抱えたくなった。子役の子もその後の成長が心配になる。カテコでは笑顔だったから大丈夫なんだろうけど。や、ほんとに大丈夫なのか?とか。

でも、これはやばいなと思った。きらいじゃない。面白いし、ぞくぞくする。見たのは復活だったので08年だから藤原竜也は26歳だ。古い方のも見たくなった。演出は同じなのかかなり違ったりするのか。ファイナルをポチってしまう日も遠くないような気がして恐ろしい。そしてほんとの初演が見られるものならものすごく見たい。この戯曲は十四、五歳の藤原竜也が初舞台を踏むためにあったと思った。

とまあそれはともかく。演出や演技についても少し。
音の洪水だ。最初の鉄を切る火花と不安と不快を煽る音。うるさいと思わせるくらいしつこい音と身体表現の融合は舞みたいだと思わせるところが多々あった。芝居と仕舞の融合というか、これ、やっぱり弱法師を元にしているだけあって動きはまったく違うのだけどお能を見ているみたいだと思った。地謡が入るからかもしれない。スーパー歌舞伎ならぬスペクタクル能。
あと、盲目となったしんとくの演技が良かった。あれは見えてない人だ。表情の作り方が解りやすいからなのかもしれない。でもそういう型にはまった表現というのは夢とまぼろしを描いているような舞台に安定感を与えるから必要な解りやすさなになっているようにも思った。

まだ他にも思うことがあったと思うけど一回見ただけだとこのくらいしか書けないようなのでとりあえずこのくらいで。
以上。雑感でした。

カテコないほうが夢物語であり続けるためにはいいと思ったけどカテコはカテコで普通に好きです。しんとくから藤原竜也になってるから。あと白石加代子は圧巻だった。

もう何回か見てもうちょっと練れたらまたぽつぽつ付け足すかもしれない。まだ特典の方は見てないし。

 

追記(20150405)
台湾でのハムレット公演に先立って記者会見で藤原竜也ハムレットを旅だとたとえた。身毒丸も同じく旅だ。蜷川幸雄藤原竜也にさせた旅ではないだろうか。最初、冒頭のしんとくと同じ年ごろである十五歳で初舞台を踏む。そして五年後、劇中の年齢が不明なのでこれが正しいのかよくは解らないけれどラスト再び撫子と巡り会ったしんとくと概ね同じ年頃である二十歳でファイナル公演に臨む。実年齢と概ね役の年齢が呼応しているなかでの初演再演は意図的なのかと初見から一日経って思った。
けれど、舞台、いや、演劇というものは自由だ。若い人間が老人の役をやることも可能でその逆もしかり。役と呼応する年齢でその舞台を踏んできた藤原がそれから六年後、復活でまた身毒丸を演じた。上記したように冒頭のせりふ、おもに発声に私は違和感を抱いた。これはまだ十代半ばの不安定な子どもがやるべき役だと思った。けれど、そんなことはない。二十六歳の青年が十代半ばの少年を舞台の上で表現することは可能だ。それが演劇だから。けれど違和感を覚えた。つまりそれは私のなかにある少年と演じた藤原のなかのしんとくという少年に差異があったということでもあるけれど、もしかすればまだ少年を演じきれていなかったということでもあったのかもしれない。どっちが正しいかは解らない。私には幼さが足りないと感じたけれどあのままで完璧だと思う人もいるはずだから。つまりなにを思ったのかといえば、役者はだれにでもいくつにでもなれるということだ。決して役と呼応する年齢でしかその役をやれないわけではない。三十を過ぎた藤原竜也にもできないことはないはずなので今度やることはまあないとは思うけれど冒頭の違和感すら吹っ飛ばすような完璧なしんとくをまたやってくれないだろうか。と、思ったという話です。つまり生で見たい。映像は編集が入るのでどうしても舞台全体を感じることが難しい。舞台はやはり生に勝るものはない。ほんと見たかったな、と。以上、追記でした。

 

追記(20150524)
身毒丸はあの父親の家の形ってものを必要以上に求める歪みがあるから成立する。それがなければ身毒丸はあんないじけた子に育ってないし、たぶん、あそこまで生みの母親を求めることもなかった。そして、生みの母親を求めることと新しい継母くることがぶつかることになる。まあ、でもそれだけだったらそこまでこじれたことにはならなかったかもしれない。最初に身毒が撫子を見たとき撫子が身毒を見たときに二人が互いにたしかに気持ちをよせた。それはまだたしかなものじゃないけど決して母子の情ではなくて男女の情だった。でもそこに父親が押しつける家の形が入ってくるから二人のなかで生まれたはずの男女の情が昇華できなくて二人のこころをいじめることになる。だから結局家族としての形は歪んでちゃんと家のなかにおさまらなくなって家は壊れる。そして家も父親も弟も壊れて撫子も身毒も壊れてもう一度出合い、ようやく結ばれるけどその時にはもう自分たちの気持ちと肉体以外なにもない状態でだから二人が旅立つのは明るい未来ではく闇なんだろうな。と。二人は結局あのあとしあわせになるわけじゃない。あれは道行き、つまり、死出の旅だから。と、今日、色々考えてて思ったり、した。
上記と矛盾、してるか?読み返してないから解らない←