ことはみんぐ

演劇、美術、ミステリ、漫画、BL。趣味の雑感。

NINAGAWAマクベス(過去ログ)

公演概要

演出:蜷川幸雄

作:ウィリアム・シェイクスピア

訳:小田島雄志

出演:市村正親、田中裕子、吉田鋼太郎柳楽優弥

敬称略

www.bunkamura.co.jp

観劇公演

2015年9月25日マチネ

シアターコクーン

 

以下、2015年9月27日にTwitterにて掲載した観劇レポとなります。

 

 注意

  • 何の気遣いもなくネタばれしています。

 

まず唐突に登場する老婆がふたり。ゆっくり後ろからセンターブロックの両サイドをひとりずつ腰の曲がった老婆が背中に荷物を担いで下りてくる。
私の席はXAの14、センタブロックの最前の一番上手側の端だった。ちょうど舞台にかかる階段の横だ。
老婆が急に現れて驚いた。とはいえ、実はネタばれというほどでもないがまずふたりの老婆が現れるという演出は前までの公演でもあったようで最近なにかの記事、おそらく芸術新潮の蜷川特集で読んでいたため知ってはいた。でも、わ、ほんとに来た!とやっぱり驚いた。
あの老婆はマクベスの戯曲には登場しない。最初に現れる老婆は一体なんなのか。彼女たちには舞台の端に一、二列目と同じくらい舞台からはみ出した場所に座布団を敷かれて座る場所が確保されている。ふたりはまず舞台に上がると額ずいて祈りを捧げる。そして半分閉まった舞台の扉、まさしく仏壇の扉を真似た大きな扉を小さな体で端へと押し開ける。

 

そうして舞台の始まりだ。

ライトが照らされて桜がばさばさ落ちてくる。紗幕の役を負った仏壇のもう一枚の扉の向こう側にだ。
そしてようやく現れる魔女三人。
仏壇マクベスにふさわしく、歌舞伎の姫の出で立ちの三人。振り乱された髪にはきらきらの派手なかんざし。ひとりは舌を赤く塗っている。
三人の魔女が話し始める。
小田島雄志訳のマクベスは魔女のせりふが基本的に七五調になっている。それを読んでいると普通に歌うように聴こえてくる。もともと節がついているような感覚がある。だからこういう感じだろうかと想像をしていた。けれど、たしかに節はついていたけれど歌ではなかった。歌舞伎の節回しだ。
2015ハムレットのときに雛壇を登場させた劇中劇と同じ節回しで魔女たちは語る。
そしてこの魔女がすごかった。発声が完璧だ。うまい!
動きも滑らかなようでかくかくしていて歌舞伎の型を持ってきている雰囲気だった。
マクベスが登場してからはなにかを言われる度に前述した紗幕扉のところまできて三人よせ集まって目をぎょろぎょろさせる。実際のところ三人とも歌舞伎と同じく本当の女性ではなく演じているのは男性でだからということもないかもしれないが顔がたぶんかなり大きい。決して小顔ではない。それが白塗りで目をぎょろつかせているからかなり異様でコミカルでこれが和物マクベスの魔女だと言われれば納得だ。魔女は本当にとても良かった。もちろん、魔女だけではない。見せ場がしっかりとある個々人だれもがみんなうまかった。

 

 

武者がセンタブロック下手通路から下りてきて舞台に上がる。報告。確定じゃないけど我が軍の勝ちを告げる。
マルカムが舞台中央奥の王の傍らから下りてきて「この者です、私の危機を救ってくれたのは」と父王に嬉々として告げる。
マクベスを讃える。

 

マルカムくんは柳楽優弥くんだ。私に幸運の最前チケットを運んでくれた。
彼はなんというかかなり貫禄のあるなりだった。ちょっと金太郎にも見えた。まさかり担いでなかったけど。そういう五月人形がそのまま動き出したような若い武者ぶりだった。かなり可愛い。なりはそんな感じでまだ父王も無事でこの辺りの彼は幼い雰囲気がかなりある。無邪気というかんじだろう。
それに対して父王の隣で大人しくしている細面の弟君、ドナルベーンに扮するのはネクストシアターの内田健司くんだ。彼の存在感はかなり弱い。まあ、もともとドナルベーン自体、戯曲のなかでも登場する意味があまりよく解らないまま、その存在も名前付きで出されたわりに途中で消えてから行方知れずではないだろうにほぼ行方知れずでそのあとどこいっちゃったの?なんででてこないの??という役なのでそれはそれで仕方ないのかもしれない。(マクベスでは弟君のドナルベーンとバンクォーの息子フリーアンスが行方知れずのまま放っておかれる。弟君はともかくフリーアンスは魔女の予言にも名指しではないが一応登場するためその生死を含めどうなったのかは結構重要だと思うのだがほったらかしなので戯曲として微妙に未完成な感じが拭えない)

 

さて。王たちが集まってマクベスの紹介をしてくれていよいよ真打ち登場である。
マクベスとバンクォーが馬(本物ではなく、歌舞伎に出てくるような人が張り子のなかに入って馬の役割をしている。足で地面を蹴ったり、馬っぽい動きが随所にあった。ついでに作り物の顔がちょっと間が抜けてる感じで可愛い)に乗って魔女たちのいるイメージ荒野に現れる。バックには月だ。大きな月。たぶんここのシーンにもあったと思う。

万歳マクベ〜ス!ばんざ〜い!マクベ〜ス!ばんざ〜い!マクベス

口々に告げられる魔女たちの予言。
はっとするマクベス。将来の国王と言われたマクベスはなんだかちょっと嬉しそうでああやっぱりこの人は野心はあるんだなと思わせる。
ちなみに魔女は上手側の人が良かった気がする。声は男だったけど張りのあるいい声だった。たぶん姿もかっこいいと、思う。なにせ白塗り魔女だからよくは解らないけど。真ん中のひとも良かった。下手側の人も悪くはなかった。下手側の人は舌を赤くそめていたひとで一番顔が大きくて美醜でいったら決して美しいひとではなかったけどコミカルさはダントツでそれが良かった。

 

このあたりからマクベスの独白が入る。バンクォーとふたりのときではなくその少しあと使者が来てマクベスをコーダーの領主と呼んだ辺りだ。
マクベスの独白はまだぶれている。この人は決して強くない。そして市村さんが演じるとなんだかかなりいい人に見える。もちろん、それで良いのだろうまだ始まったばかりだからだ。魔女の予言という毒を耳から注がれた直後でまだその毒は全身にまわっていない。というか、たぶんこれは市村さんがどうのじゃなくて戯曲の問題だ。考えてみれば上記もしたがマクベスの戯曲には未完成感が拭えない。昔読んだときにもすごくそう思ってマクベスが魔女の言葉で悪へと突っ走るその心の流れみたいなものの劇的さ、というかその流れを作る本流が実はちゃんと見えない。私の感覚では。それをある意味市村さんは体現していた気がする。中途半端なんだよね、マクベスの戯曲って。だから魔女に注がれた予言という毒がどうやって体内を巡って全身を冒すのか見えにくい。市村さんの芝居が悪いわけじゃない。変化が緩やかなうちに最後までいっちゃうから変な感じがあって、魔女の予言がマクベスを変えたのかもともとマクベスのなかにあった野心が表面に出てきたのか、悪意がどこかぼんやりしていて掴みきれない。もともとそういう役だ、マクベスという役は。だから実はかなり難しいのかもしれないな。市村さんは戯曲にかなり忠実なマクベスだったような気がする。

 

そして私は実はタイトルロールより他の方のほうが好きだった。
ダントツは田中裕子だ。あのひとのすごさはもうわけが解らない。声だ。声だけでいい。もちろん芝居だから身振り手振りも入る。でもそんなものすら必要ないと思うくらい声だけでこの人は芝居をした。時々もののけ姫のエボシが浮かんできたけど、そんなの気にならないくらい本当に声の芝居がよかった。この声は完璧だ。完璧で圧巻でなんの問題もなくマクベス夫人だった。しかし完璧すぎるんだ。完璧としかいえなくてどこをどう褒めて良いかすら解らない。ただ声が完璧だと思うあまり身振り手振りがじつはちょっとうるさいとまで思ってしまったので声の演技がうますぎるのも問題なのかもしれないと少し思ったには思った。ただし、あの身振り手振りは絶対に必要だ。最前列のように目の前で芝居をしてもらう分にはなくてもいいかもしれない。でもきっと会場の一番後ろで見てるひとには必要なはずだ。しかし声があればそうでもないんだろうか。でもなにしろ本当にうまかった。うますぎる。完璧だ。やっぱり完璧としか言えない。すごかった。

 

そして吉田鋼太郎だ。この人の存在感はやばい。さすがシェイクスピア俳優!という感じだ。なんだこの底の浅い感想は。すごくかっこ良かった。最近よく見かけるバラエティの感じやドラマの感じと全然違う。気迫が。舞台で培われてきた実力が遺憾なく発揮されていた。あの人はね、舞台で見なきゃだめだ。すごいよほんと。

 

そして橋本さとし。この人は殺されるシーンが本当にすごかった。もちろんそこが一番の見せ場だ。
戯曲の流れとしてはその前に玉座にすわって魔女の予言を反芻するシーンがあれ?と思わせてちょっと面白かったのだけど、殺されるシーンは圧巻だった。しかし、だ。実はその殺されるシーン、私にはバンクォーの顔が見えなかった。上記した紗幕、仏壇の二枚目の扉が閉まっていてちょうどその柱の部分が顔になったからだ。私の座っていたセンターブロックの上手端という席はちょうど真ん中の柱が邪魔になるらしい。役者はそのときどこに立っているのだろうか。やはり舞台の真ん中だろうか?でもそれならば私の席に限らず真ん中の席のひとも見えないような気がしなくもない。あの柱はちょうど真ん中の柱ではないのだろうか?そこまではよく解らないが、なにしろ殺される瞬間私にはバンクォーの顔は見えなかった。けれどそれが実はなぜか良かった。全身の動きは見える。でも顔の表情だけが見えない。最前の席は表情が見えることがじつはネックになったりもすると言うことが今回最前で見て初めて気づいた。表情での芝居も重要だ。でもそればかりが必要なわけではない。ミクロがマクロに拡散することもあるだろうが、劇場全体に届かせるためにはマクロな芝居が重要になる。橋本さとしはそういう芝居をしていた。だから顔が見えないその芝居を見て鳥肌が立ち、じつは泣いた。本当にこのシーンはすごかったし、よかった。

 

ちなみに、玉座に座って魔女の予言を反芻するシーン、なぜあれ?と思ったかといえば、印象としてはバンクォーには強い野心がないと思っていたのだけれど、反芻するシーンで自分の子孫が玉座に上るという予言がマクベスに与えられた予言が当たることで信憑性を帯びてきて自分にもチャンスがあるのかと嬉しそうに語っていたからだ。え、あ、この人もそういう欲があるんだな、と。思って少し意外だった。でもだから、のちのちマクベスが更なる予言を聴きに魔女のもとを訪れたとき、自分の子孫だという王冠を被ったものたちのあとに並んでついていくバンクォーがにやにや笑顔で子孫たちを指差して歩くシーンのにやにや笑顔に繋がるのかな、とも思った。

 

で。気になったところ。というかなんというか。
マクベスマクベス夫人ふたりのシーン。マクベス夫人がマクベスの尻を叩いて奮起させようとするシーン。
マクベスが下手、夫人が上手にいる。
ふたりとも順番に独白じみたせりふを言う。そのときにお互い舞台端に座っている老婆と目を合わせる。老婆もちゃんと下手の人はマクベスを、上手の人は夫人を見て視線を合わせている。
舞台上の人々に老婆は見えないことになっているのだと思う。そもそも老婆はマクベスたちの世界の住人ではない。お弁当の入れ物の籠とかぼろぼろの着物とか現代の人というよりは結構前のひとかなと思うけど、なぜか水筒は現代のものだし、たまごの殻入れつくる広告紙だって現代のものだし、時代感不明だけど決してマクベスと同じ時代、同じ世界にはいない。仏壇のなかで繰り広げられるかつての悲劇を見ているように見える。芝居ではなく、過去のどこかのあるときに本当にあった悲劇を。
それでもマクベス夫妻は老婆と目を合わせている。老婆が一方的に見ているわけではない。たまたま視線が合っているような雰囲気ではない。それはだれにも告げられない秘密を老婆にだけ打ち明けているようだ。
あれは不思議な感じだった。
老婆が本当はどういう存在なのかさらに混乱を来した。

 

そしてマクベスは自分の城に滞在していた王を殺す。護衛のせいにして。

門番のひとは2015ハムレットで墓堀をやっていたひとだ。酔っ払いの門番。お手の物という感じだった。

 

ここでマクダフ登場。
最初から鋼太郎さんだ。声が強い。
ああ、やっぱりこのひとすごい人なんだな、と思った。

 

そして父王が殺されたことが明らかにされ、息子たちが舞台の中央先端まできてひそひそ話をするシーン。
内田くんのドナルベーンの最初で最後の見せ場だ。まあ最初で最後もなにもこのあとドナルベーンは出てこない。内田くんはマルカムのいとことしてまた登場するけれどそれはまた別の人物になっている。え?なんでまたいるの??弟帰ってきた?て出てきたときは思ったけど、いとこ君だった。
それはともかく、ここは良かった。なにが良かったかといえば個人的な趣味においてとても美味しかった。
兄弟が内緒話をするのは父王が殺されたことが解ったシーンだ。
自分たちの身にも累が及ぶと瞬時に判断した兄が弟と言い交わすシーン。
ふたり小声だ。あの小声はもしかすれば会場の後ろまで届かなかった、、、かもしれない。内田くんはハムレットでフォーティンブラスを演じたときにも小声に注目されていたけれど今回も小声なんか!と思わず胸のうちで突っ込んでしまった。
彼はたしかにそんな小声な雰囲気が似合う線の細さだが、この舞台ではそれは少し弱さに通じているようにも思った。小声、ちゃんと聴こえたのかな?
何しろ最前列で見ていたため小声だろうがなんだろうがほぼ目の前で演じていて聴こえないということはなかった。でもひそひそ話なので聴きにくい声だなと思ったのが正直なところだったりする。
まあそれはともかく、このシーン、兄弟は別れ別れに逃げる算段をしているのだが、今生の別れくらいな気持ちがやっぱりどこかにはあるのだろう。ひっしと抱き合う姿が印象的だった。ギュッてしてた。良かった。色んな意味で。すみません。
ちなみに、カフカカフカとカラスが抱き合うシーンもあるのだけどそれをみたときにこの兄弟のシーンを思い出した。

 

あと、照明がすごかった。月が真っ赤に染まるのと、マクベス夫人の衣装が銀色の打ち掛けなのだけどそれが青くなるところが。

 

マクベス夫人の夢遊病のところで医者がちょっと噛むところがあったけど、それくらいでせりふのミスがほんとなくてそういう意味でもすごかった。

 

あと、地味にマクダフ夫人が良かった。たぶんネクストの人だ。ネクストハムにも出てたような気がする。もしかしてオフィーリアかな?
子役が登場するシーンで、ちゃんと夫が消えた母子の悲劇を演じていた。
ここでマクダフの息子が殺されるのだけど、その瞬間、老婆が声を上げて泣き出すんだ。それにつられた部分もあるけど普通に哀しくなって少し泣いてしまった。
しかし鋼太郎さんが妻子の死を知って男泣きするところはたぶん泣かなかった。哀しいなと思ってはいたけど。涙が溢れるまでいかなかった。

 

武者たちがすごい勢いで舞台前面に駆け込んでくるシーン。偉い人が前にいて控えるシーンなんだと思う。マクベスに対してかな?最初に降らせたさくらの花びらが全編通して片付けられずに進むから走り込んでくると花びらが舞う。それがすごくきれいでついでになにしろ最前列だったので舞い上がった花びらが膝に舞い落ちてきた。おおって思った。

 

南の国でマルカムとマクダフが再会するシーン。
ここがマルカム童貞を告白するシーンだ。(失礼)
舞台が変わる。すごく大きな四天王像がなぜか立っている。不思議空間だ。
ここ、マルカム最大の見せ場なはずなんだけど、ちょっと抑揚が弱いかなと思った。実は。ごめんね?うちに最大の幸運をもたらしてくれた柳楽優弥くんには最大の賛辞を、、と思ってたんだけど、ちょっと期待感の方が強すぎたのかもしれない。
マルカムは自分が最低最悪下劣な領主にしかなれない!みたいなことを言ってマクダフに国に戻って王になれって言われるのを最初躱そうとするんだけどそれがちょっとね、中途半端に下劣感が出てない。
もっといやらしくやればいいのか、そういうことじゃないのか、実は、そんな悪いことかんがえたこともなかったよ、とあとあと嘘だったことを告白するんだけどその告白自体は悪くないからやっぱりその前が迫真にならないから抑揚が弱いと感じたのかもしれない。まあもちろん、マルカムは王子様で役者ではないから嘘をつくのになれていないのだというのならそうかも知れないけれど。でもやっぱりもうちょっと抑揚があるとマクダフに自らいのちを絶たせるだけの力にならないと思うので少しここは実は違和感だった。でも、嘘だよって自害しようとしたマクダフを止めるところは凄くよかった。必死なのがちゃんと伝わった。
マクダフの強い演技にも助けられているんだろうか。そうかもしれない。

 

あと、南の国ってしてるんだよね、コーダーとかほかの地名はちゃんと地名なのにマルカムが逃げたイングランドのことを。あとドナルベーンが逃げたアイルランドのことは海を渡った先、みたいな言い方だったろうか。
イングランドは名前としてあまりにメジャーすぎて和物のイメージにそぐわないと判断したからだろうか。ちょっと不思議だった。

 

そして、ドナルベーンだ。ドナルベーンは行方知れずのまま話は終わってしまうのだけど、戯曲にはイングランド軍が来てダンシネーンに攻め込んでくるあたりでドナルベーンは来てないみたいなことを話すシーンがあるけどそれが今回の舞台でははしょられていた。

 

武将たちが紗幕の前に並んで鬨の声を上げるシーン。
ドナルベーンのかわりに南の国の名将でマルカムたちの叔父にあたるらしいシーワードの息子、小シーワードになって内田くんが現れる。いきなりきたな行方知れずとかも話してないのに。いや、あ、そうか小シーワードか、と理解するまでに少し時間がかかった。二役なのね。と。

ここの鬨の声を上げるところはさすがに圧巻だ。なにしろ最前である。うるさいくらい太い男性たちの声が響く響く。

 

あとバーナムの森が動くシーン。
もちろん桜の森であるはずがない。戯曲的には。でも桜の森が動くんだ。枝を持てってマルカムがいうから、南の国でのマクダフとの再会で持ってたような桜の枝を持っているのかと思っていたけれどかなり違った。枝というかちょっと小振りな木を背中に背負ってる武者たちが紗幕の奥にわらわらいる。あれはきれいだった。紗幕の後ろだから偽物の桜なのは解っているけどさほど偽物感がつよくなくて。あとたまに桜の木がいきなり湧いてでたりもするんだけどそれも紗幕の後ろでやっぱりきれいだった。

 

そして戦いのシーン。
小シーワードがマクベスに殺されるところ。
というか、殺されたあと。内田くんは目を開けて倒れていた。ので、死んだあとにじつは瞬きするところをばっちり目撃してしまった。あ。瞬いた。て普通に思ってしまってごめんね?

 

あ、それから忍者だ。
暗殺者の役が忍者になっていたのだけど筆頭忍者はおそらくネクストの人でたぶんネクストハムレットで王をやっていたひとだと思う。かなり印象的な雰囲気でマクベスの味方側になる暗殺者だけじゃなくてマクベスの城、ダンシネーンでの戦いではマクベスと対峙する武者にもなっていた。あれ?きみ、忍者でしょってなったという。(既視感←

見慣れてくると結構役者さんの見分け、聞き分けが出来てあれ?あれ?となるので見慣れるのもまた。

 

ラスト。
マクベスの首を持って現れるマクダフ。マクベスが倒れて王になったマルカムが演説をする。あのシーンのマルカムは悪くなかった。実はまだ見てない蜷川シェイクスピアシリーズのシーザーでアントニーが民衆に対してする演説で語りかけることの大切さというか強さの必要性というかそういうものについて語っていた観劇ブログを読んだことがあるのだけどそれを思い出した。このマルカムの演説はものすごく強く訴える力があるかと言われればまだまだのような気がしなくもないけど良かったと思う。
でも演説の強さは、実は演出上煙に巻かれてしまう。
紗幕の扉が閉まってマクベスの世界の人々は奥にしまわれてしまうからだ。そして老婆が立ち上がり仏壇の扉を閉める。そして登場したときのように仏壇の前で跪き額ずき、祈りを捧げると袖にはけていく。それで暗転で全ては終わりだ。

 

老婆は一体なんだったのか。説明はない。もちろん。でも彼女たちはあのマクベスの物語をちゃんと見てたんだ。遠足にきたみたいな雰囲気だったけど、やっぱり弔いにきていたのだろうか。
夏草や兵どもが夢のあと
といったていだ。
あの仏壇は忘れられた廃墟の寺のようだ。かつてあった戦場に残された廃寺。
そこへかつての戦を幼いころにでも経験した老婆が弔いに現れる。そんな雰囲気だろうか。
あの老婆が観客と舞台を繋ぐ。そして観客と舞台を乖離させる。
老婆は境界であり、結界でもある。

そして。カテコ。
三回。三回目でスタオベ。もうね、なんだか感極まってしまって半泣きで拍手してたんだけど、スタオベのときちらっと下見た市村さんと目が合ったよ。泣いてたからかな?ん?みたいな顔をされた、と思う。

 

最後に。
NINAGAWAマクベスは完璧だった。
まず役者が本当に立っていた。粒ぞろいだ。フライヤーに役名がちゃんと乗っていた主要キャストは特に。
でも主要キャストだけじゃない。ネクストの役者さんもうまいな、て思わせるひとが多かったし、魔女も圧巻だった。
蜷川幸雄が作り上げた和物マクベスという器に本当にふさわしくほとんどの全ての役者がおさまっていた。
個人的にマクベスシェイクスピア戯曲のなかではさほど好きな戯曲ではない。上記したが中途半端な話だとどうしても思ってしまうからだ。でもたしかにえ?この人どうなっちゃうの??て思う部分はそのままで、ある意味その割りを一番食ってるのがタイトルロールのマクベス、市村さんだったような気はしたけれどそれでも完璧な舞台だった。
本当にすごかった。
粒ぞろいの役者が揃った上にその粒が決してけんかをしていない。すごくちゃんと調和がとれていた。過不足なくきちんとおさまっている舞台だった。圧巻だ。本当に見られてよかった。

翌日にはカフカを見ておそらくは舞台の作り方からなにからすべて全く違うことに蜷川幸雄の振り幅の広さにもまた圧倒された。本当にすごい。