ことはみんぐ

演劇、美術、ミステリ、漫画、BL。趣味の雑感。

海辺のカフカ(過去ログ)

公演概要

原作:村上春樹

脚本:フランク・ギャラティ

演出:蜷川幸雄

出演:宮沢りえ藤木直人、古畑新之、鈴木杏柿澤勇人

蜷川幸雄80周年記念作品『海辺のカフカ』|彩の国さいたま芸術劇場

観劇公演

2015年9月26日マチネ

さいたま芸術劇場

 

以下、2015年9月28日にTwitterにて掲載した観劇レポとなります。

 

 注意

  • 何の気遣いもなくネタばれしています。

 

カフカをみたとき、映像のようだと思ったんだ。でも生の舞台でほんとうに目の前で呼吸してることすら解るのに映像みたいだと思う意味が自分でも解らなかった。生と画面を通してでしか見られない映像ではどう考えても生の方が強いし、いい悪いの問題ではないし、格が上だとか下だとかの問題でもないのだけれど、生の舞台を見ているのに映像だと思ってしまう自分に違和感があった。この感覚はきっと間違っている。映像だなんて思ったらそれは今目の前で舞台に立っている人たちに申し訳ない。そう思ってそんな感覚を抱く自分にちょっと自己嫌悪すら持っていた。だって本当にすごい舞台だと思ったんだ。だからちゃんとそのすごさを的確な言葉で表したいと思った。でもなぜか出てきた言葉は映像のようだった、で、自分で自分が許せなかった。でも、そう感じてしまう理由が一日経ってやっと解った。瞬発力!どこにもないんだ瞬発力ってやつがうちには!まあそれはともかく理由だ。あまりにも美しすぎるからだ。全ての動きが完璧にはまっていた。生身の人間がやることには限界がある。だからこそ、良い意味でぶれのある振り幅のある舞台というものが素敵だ。ハムレットもウーマンも、REDも、NINAGAWAマクベスでさえちゃんとそこに生きた役者がいてそれぞれが役を演じている〝芝居〟だった。上記した作品どれも私はちゃんと見ながら感情移入して時々泣いて楽しんでみた。カフカもとても面白かった。でも上記の演目とカフカは感じるものが全く違った。目や耳から頭に入ってくる、こころに入ってくるルートが違うんだと思う。マクベスだって完璧だった。本当に見事だった。でもカフカの完璧さはマクベスのそれとは全く違う。統制の美なんだ。ぶれや振り幅が決してないわけではないのだと思う。でもないように思わせる。全ての動きが完璧に計算されていてそのなかにすべての役者がぴたりとはまる。いや、役者だけではない。装置を動かす黒い服を着た彼らもだ。あの計算された、それでいて決してそうは見せないがおそらくは互いに呼吸を読んで臨機応変に動いているであろうあの動き、そう、臨機応変に動いていなければ生身の人間がやることには限界があって毎回毎回全く同じルートを通っているはずはないんだ。数ミリ数センチそういうずれが必ずある。でも決してそのずれを客席から見通すことはできない。そうは舞台の上の彼らがさせはしない。その完璧さが舞台というものを私が捉えていた感覚とずれた。とても良い意味でずれた。だから映像のようだと思った。映像ならば間違ったときもう一度取り直して継ぎ足して切り貼りすることが可能だ。そういう直しが入った上で直した痕跡を見る者に感じさせない技術がある。でも生の舞台にそんなものはない。しかしないにも関わらずカフカは完璧だった。だから映像のようだと思った私のこの感覚は決してあの舞台を貶めてはいない。賛辞だ。最高の賛辞として言葉にしたい。本当に美しい舞台だった。せりふを噛むこともあったけどそれですら完璧さを損なわせるものではなかった。ラストカテコになって一回目で奥へはけていく佐伯演じる宮沢りえカフカ少年の肩を袖に消える直前、軽く抱いた。それを見て、ああ、これは映像ではなく生身の舞台だったんだなと思うくらい最初から最後まで完璧だった。すごいとしかいいようがない。マクベスだってすごかったのに、全くその種類が違うんだ。すごいよニーナ。すごい。

 

 

で。そういえば鴉よ〜もタイトル鴉だよね。カフカも鴉って意味なんだよね、フランス語?水槽の共通点はそこにもあるのかしら?不思議。そして、音楽だ。全編を通して流れていた曲。その曲を教えていただいて観劇後に聴いてみて感じたのは、あの曲がこの海辺のカフカという舞台を全て作っているとでもいうような感覚だった。蜷川幸雄はきっとカフカの舞台を作り上げていくあいだずっとあの曲が頭のなかで鳴っていたのではないだろうか。あの曲を、あの音を、あの音楽を、かたちにするとあの舞台が出来上がる。映像のような、でもちゃんと人がそこで息衝いているあの舞台が。

 

あと、なぜかカフカは舞台に引っ張ってかれる感覚がすごくあった。今、マクベスの感想を書いていて老婆は結界でもあると自分で書いたときに気づいたのだけれど、マクベスは完全に異世界だった。だから完璧に自分たちのいる場所とは違うという線引きが出来た。いや、それだけエンターテイメントとしてちゃんと成立しているということでもあるのかもしれない。見る者は舞台で繰り広げられる物語をちゃんと楽しむために存在できた。

でも、カフカは違った。夢だからだ。夢の世界にはふらりと迷い込んでしまいたくなる。

実際、席にちゃんと座っていることが我慢できなくなる瞬間が何度もあって、あの世界に迷い込みたい、舞台に上がって彼らと同じ視線に立ちたい。そんなふうに思わされた。解ってる。そんなことしちゃいけないって。だからちゃんと大人しく座ってたよ。もちろん。
カフカは舞台の上だけで芝居が成立していて舞台にかかる階段がなかったのだけどそれは私みたく感じてしまう観客を舞台に上らせないようにしているのだろうか。たまたまかもしれないが、そういう予防線なのかとすら考えてしまった。
本当に吸い込まれそうになる。芝居ではなく、いや、解っている、あれはお芝居だ。でも私にとってはどうしても芝居ではなく夢だった。
一回目のカテコが終わって上記したように宮沢りえが佐伯から宮沢りえにもどってカフカを演じた彼の肩を抱いた瞬間、やっと夢が終わったことを私は知った。カテコの最初ですら夢の続きだった。これはすごい体験だったと思う。

 

では、全体像じゃなく今度は個別に。

 

最初のオープニング。ぐっと心をつかまれて持ってかれる。まだ客席の照明が落ちないうちに音楽が流れる。上記した蜷川幸雄のあたまのなかで流れてると勝手に思ったあの音楽だ。
大きな水槽のなかに木が植わってる。トラックが入っている。バスも。ただし、バスはコピーのパネルだったけど。ネオン。自販機、トイレ。そして人間と人間。
宮沢りえが青いドレスを来て水槽におさまっている。視線が客席に向けられている。目を見張って客席の方をみている。あの目を見た瞬間、なんだか解らないけど泣きそうになった。
あの目はすごい。目で芝居をしていると思った。目ですごく訴えられてるとおもった。簡単に感極まって泣きそうだった本当に。
もうひとつの水槽にはカフカがからだを丸めて入っていた。胎児の姿。体を丸めた胎児の格好。動き回る水槽。佐伯だけが視線を動かす。カフカは顔を見せない。

ガラス張りの大きな箱。箱ごとにシーンが切り取られて出来ている。
箱を動かすタイミングと動かす黒い人たち。本当に良く出来ている。カテコの2回目では黒い人たちのこともちゃんと呼んでみんなでとなるのも当然だった。本当にすごかったからおしみなく拍手させてもらった。

 

最初の台詞はたぶんカフカ。そしてカフカの隣にカラス。

カフカは家出するときに父の書斎にあったお金と鋭いナイフをひとつ持っていく。ナイフが媒介する。媒介してカフカとシンクロしたナカタがカフカの父であるジョニーウォーカーを刺す。ためらいもなく、感情もなく。ねこのミミを守るために。その瞬間、舞台上の時間としてはもっと前に当たるけれどカフカは野犬に追いかけられている。自分も噛みつかれたり、でもさほど大きな怪我は負っていないが、野犬から死ぬ物狂いで逃げている。そしてにげてにげて気づいたら服が血で真っ赤に染まっていた。記憶はない。また頭に血が上ったのかもしれないし、なにが起きたのか本当は全く解らない。
でも、あの血はきっと父親ジョニーウォーカーの血だ。
空間と時間がねじ曲がって繋がってナカタが浴びるはずの返り血をカフカが浴びることになった。
父を刺したのはナカタでカフカではない。でも、カフカがまるでナカタに乗り移ったようだった。

 

ナカタは空間と時間を超える。カフカの父、ジョニーウォーカーに自分を殺せと迫られてどうすれば良いか解らないとき隣の箱に目を向けるナカタ。
となりの箱は図書館でカフカとカラスがしゃべっている。ジョニーウォーカーが話し始めればまたジョニーウォーカーに意識が反れる。でもやっぱりナカタはあっちとこっちを世界が行き来している。そしてこのとき、ナカタのいる場所ではジョニーウォーカーは生きているけどカフカのいる場所ではカフカが血まみれで記憶をなくしてたときよりあとだからジョニーウォーカーは死んでいる。時間軸のずれ。時間と空間の交錯。

カフカには頭に血が上るとなにも解らなくなってしまう瞬間がある。そういうとき暴力を振るってしまう。

 

図書館の息子と佐伯さん。

大島の正体。実は女性。そうなの?

人の心。
男男、男女、女女。みんな魂を二つ持っている。それがたまに別れてしまう。

ナカタさん。
木場勝己さん。この人の芝居は盲導犬の映像化で見たものがすごく印象に残っているのでかなり違う役で最初、あの盲導犬のひとだとわからなかった。どっかでみたことあるけどだれだっけ?て。

 

ナカタの事故の話。当時の教師がだれかにあてて先生といっていたけど、その先生にあててなにがあったのかを告白している。ナカタだけ回復せず何日も高熱を出して寝込むことになったのはその教師に殴られたからだ。
ほかの子どもが倒れたのは毒ガスより、集団ヒステリーというものが一番当てはまりそう。

戦争で死んだ夫が夢に出てきて夢のなかでめくるめく一夜を過ごした真面目そうな女性教師。目が覚めて自慰をしたと手紙に書いていた。それが遠足の日の朝。
そういえばカフカ少年は毎日規則正しい生活をして時々マスターベーションをするっていってた。

混沌と秩序。
ナカタは混沌であり秩序。
カフカは秩序でありたいけれど混沌に巻き込まれる。
ジョニーウォーカーは混沌だけどもしかすれば秩序に憧れるのかもしれない。

こういう哲学的な流れがちょっとREDに共通していて話のとっかかりというかそういうものはREDと似てるんだな、この話は、と少し思った。画家も作家も考えることは結構近いということなのかもしれない。

カフカは夢のように美しい舞台だけれど猥雑さも同時に混在していてそれが決して矛盾せずに存在していた。
セックスしながら哲学を語る女子学生のホテトル嬢に哲学を語るカーネルサンダース
ちゃんと性のにおいがする話だ。それは生に通じる。そして描かれる死。
生と死が同じレベルで描かれているんだろうな、きっと。

REDには生はあるけど性がないんだな。猥雑さはあるけど猥褻ではない。じつはかなり高潔だった。カフカは違う。高潔と猥褻は表と裏で両方存在する。まあいろいろあるからしょうがないんだろうけど、高橋努演じるトラック運転手が全裸じゃなくてちゃんと局部だけ肌色の布で覆ってたのがみえちゃったのは微妙な感じがしないでもなかったけど。まあそれでも夢の舞台は夢のままスルーできたんだけどね。席が近いというのもやっぱり善し悪しである。

 

そういえば魂が二つあるっていう話。
カフカの魂は白いカフカと黒いカラスの二つがそこに象徴されているのかなと思ったけど、そうでもないんだろうか。
カラスはカフカ以外誰の目にも映らない。
一度透明ケース越しに佐伯さんと成立しない会話をして視線を交わすシーンがあった。
カラスです、とカフカに向けてではなく佐伯さんに向けてカラスが告げる。佐伯さんにそれは届いていない。聴こえていない。でも佐伯さんは透明ケースの外をじっと見ている。その目の前にカラスはいる。そっとケース越しに手のひらを重ねようとするカラス。その瞬間、佐伯さんは振り返ってカフカの方へ行ってしまう。

カフカが血まみれで血相を変えて舞台の前に出てくるシーン。カラスが心配そうに現れる。僕はだれも殺してない!でも覚えてない。殺してない!覚えてない。カフカとカラスがぎゅっと抱き合うシーンだ。ここよかったなー。個人的な趣味が絶大に反映されてよかった部分もあるけどぎゅってお互い指が服の上からうすっぺらい肉に食い込んでるのが解るくらい強く抱き合ってるんだ。とてもよかった。ちょっとえろくて。
そもそもカラスのスキンシップ過多に見えるカフカとの近さが良い。個人的趣味がry
でもカラスはカフカ自身で別にほかのだれでもないからあのふたりがどうこうなるわけでもないんだけれど、佐伯さんとカフカがどうこうなるときのカラスはちょっと嫉妬してるみたく見えてそれも良かった。個人的趣ry

 

それから杏ちゃん。
カフカには6歳年上の姉がいる。杏ちゃんは実際にはそうではない、けど、カフカがそう重ねる女の子だ。
この子はたぶん夢の世界で一番現実に近いところにいる。一番地に足がついている。堅実なんだ。髪の毛ピンクだけど。

そして結局、カフカと佐伯さんは親子だったのか。私は違うと思った。杏ちゃんが本当のお姉ちゃんじゃないように。佐伯さんは最後にカフカを息子だといったけどそれは偽りだ。でも、偽りと夢はよく似ている。だからそれでいいんだ。

ただ近い魂が惹かれ合って、それでも近いだけで同じではないからうまく溶け合わなくてそれぞれにまた歩き出すことになる。そういう物語だった。
ナカタさんの物語とカフカの物語、そして佐伯さんの物語。三つが連動して重なり合ってそれぞれに決着する。繋ぐのはナカタさんだ。ナカタさんはぐるぐる回る佐伯さんを見てるから。

 

ジョニーウォーカーは一体なんだったんだろう。カフカを追い立てたジョニーウォーカーカフカはどうしてジョニーウォーカーから逃げたのか。ねこを殺してるから?そういうことでもないような気がするけど。父親が死んで哀しいけどもっと早く死ぬべきだったとカフカはいった。もっと早く死ぬべきだった。やっぱりねこを殺してることをしっていたんだろうか。

 

どうも混沌としたものしか書けないらしい。

最後にカフカ少年。彼はとても良かった。うまいかへたかといわれれば決して上手い!と絶賛は出来ないような気がする。でもそれでいいんだと思わせた。ぼくとつな少年だ。そもそも私はカフカのチケットを取ったきっかけは彼だ。カフカのサイトを眺めていて彼と目が合った。舞台に立つ彼は短髪で本当に15歳くらいの子どもに見える。サイトで見た彼は長い髪を団子にしていて少し大人びて見えた。その彼の目に惹かれておもわずチケットをポチ。だ。サイトの青年とはまるで違った。同一人物なのか実は自信がない。そんなふうに思うほど舞台のカフカ少年はカフカ少年だった。うまいかへたかといえば上手いとはいえないと上記したが、いや、もしかすればそう思わせる演技をしているのかもしれない。そうだったならちょっと末恐ろしいけれど彼の雰囲気はとてもよかった。せりふも一度もミスをしていないと思う。あの宮沢りえでさえ一度ほんの少し噛んだにも関わらず。ずっと淡々としていてそれでいてちゃんとエモーショナルで彼はとても良かった。

とりあえず以上。雑感。