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ことはみんぐ

演劇、美術、ミステリ、漫画、BL。趣味の雑感をのこすために。

藤田貴大×今日マチ子「cocoon」憧れも、初戀も、爆撃も、死も。(過去ログ)

公演概要

原作:今日マチ子

演出・脚本:藤田貴大

音楽:原田郁子

出演:マームとジプシー、青葉市子他

 

mum-gypsy.com

 

原作 

cocoon(秋田文庫74-1)

cocoon(秋田文庫74-1)

 

 

以下、2016年1月1日にTwitterに掲載したWOWOW録画鑑賞レポとなります。

 

 注意

  • 何の気遣いもなくネタばれしています。
  • 原作のネタばれも含まれています。

 

錯綜する過去と現在と未来。基点が今なのか過去なのかそれによって未来にも今にもなる過去。
今、一度見終わってもう一度再生しながらこれを書き始めた。

これは、錯綜する走馬灯が見せた夢だ。

言葉、言葉、言葉。シェイクスピアとは違う。そうじゃない。でも繰り返す言葉だ。
このシナリオは最初と最後が繋がっている。過去と現在と未来が交錯してループする物語だった。
もう一度再生して初めて気づいた。

半分まで面白い舞台だと思っていた。
作り方が面白い。カンバスの枠みたいな木枠を登場人物すべてと黒子の役割をしている黒い服の男によって動かされライトのあて方を変えることで場面が次々に展開していく。黒い服の男は口を利くひとりをのぞいてみんな黒子。疾走。スピード。物語はすごく早く進む。ように見えて常に繰り返す言葉でなぜか物語は遅々として進まない。過去を何度も語っている。

そしてすべての動きが芝居というよりはダンスだった。
アミニズムなダンスに見えた。
ダンスと言葉が融合した身体表現。
すべての動きが錯綜している。言葉が錯綜するのと同じで動きも錯綜する。
完璧な動きのトレースじゃないと舞台の上で渋滞が起こるんじゃないかと思った。舞台上はほぼ全面が砂浜状に砂をしきつめてある装置でほとんどなにも目印になるものはなさそうだった。それでもそれぞれが走る方角は決っていて障害物として女の子の前に現れる黒子の男たちの位置もおそらくは決っていてそれを決った動きでトレースでもしない限り錯綜する動きはスムーズには行かない。臨機応変に十何人が舞台上を走りながら立ち位置を調整しているんだろうか?それとも錯綜をきちんと錯綜させるためになんども繰り返し繰り返し稽古をするんだろうか。ほぼ稽古なんだろうな。もちろん臨機応変な動きもおそらく公演の一回一回で積み重ねられてはいくのだろうけれど。
こういう身体表現で錯綜する乱れた気持ちと時間を表す手法が面白かった。話の内容は本当に重くて悲しくて怖くてずっと泣きながら見ていたけれど。

 

そもそも始めの学生生活はただの過去とすべての登場人物の夢によって構成されている。んだろうな。もう死んでしまった彼女たちの夢。

そして差し挟まれる過去とは違う、現代。電車のホームの男と同じホームにいる女の子。最初から予感を与えていた。最初、過去の世界ではサンと呼ばれていた女の子が語り出すとき朴訥なその話方とどこかうつろな色が彼女の影を如実に表していた。そして三十歳の男。女の子が一人で語り出したときはこれは現代でこの女の子はいじめかなにかですごくつらい思いをしたのかもしれない。そう思った。でも男が出てきて十代の高校生くらいの女の子に目が、目が行く、そう告げた瞬間に理解した。この現代の女の子の身に起こったこと。そしてこの女の子がシンクロした過去の熱い熱い六月の出来事と。

現代のことは語られない。電車のホームに影のある女の子がいて、男がいる。暗示だけがそこにはあって現代は過去を語らない。ただ夢に見たと女の子が告げるだけ。でも、この舞台はあの女の子の夢と現実が錯綜してできているんじゃないかと思わせる。

怖い。怖さの予感は一番最初かあらあった。構成が面白くて題材も内容もどうやっても辛いけどでも面白い、いや、興味深い舞台だと思っていた。だけどやっぱり怖い。最初からある怖さの予感が半分を過ぎたくらいからどんどん形になっていく。

戦況の悪化が学校生活を中心にした前半から白百合隊を思わせる看護部隊へと転換させる。
舞台の照明が一気に落ちる。場所が壕(ガマ)のなかだからだ。
それでもまだ看護部隊のままなら良かった。不安と不穏がずっとついて回っていてもそれでもまだ女の子たちは繭のなかにいられた。

本当の恐怖がひたひたと歩み寄る。
先生が逃げなさいという。この場所は負傷兵の病院ではなくなるからと。さらに戦況が悪化して軍の戦前本部になるからと。だからすでに戦争の最前線でしかないその場所から岬へ向かってひたすら自力で逃げろと生き残るために逃げろと先生に言い渡されて女の子たちはもう逃げることしかできなくなる。残ることもはできない。でも逃げても生き残る保証はなにもない。守ってくれるひとはいない。投げ出される女の子たち。まだ十代の。

不穏だ。岬へ向かって走り出してからはどこかにある恐怖ではなく、怖さの予感でもなく本当に怖かった。
それでもやはり物語は過去と現在とおそらくは少しずつ進んでいく未来の繰り返しでなんどもなんども同じせりふを繰り返すなかでひとりずつ女の子たちが死んでいく。怖い。
なんだかすごくリアルでもあった。ものすごくアンリアルなつくりのように見えるけれど抉り出す心情はすごくリアルなんじゃないかと戦争を知らない世代に思わせるリアルだったように思う。

言葉をすべて最後まで告げない、核心に言葉では触れないかわりに飲み込んだことばを激しい身体表現が代わりに見るものに言葉の奥にある核を心情の核をダイレクトに目から伝えてくる。そんな気がした。
言葉と時間が常に一定ではなくて現実と夢が常に交錯しているから絶望から一瞬でそれでも幸福だった過去へと瞬間瞬間の場転で飛ぶから芝居のなかに感情を引きずれない。一瞬一瞬で気持ちを切り替えて顔の表情も切り替えてでもずっと根底にはあの時代、あの時間が流れているそんな芝居になっていた。

作りは複雑ででもどこかすごく単純できっとよくできている。そしてすごく怖い。見終わってから原作を読もうと思っていた。でも怖くて読むのは怖いと思っている。

純潔を奪われるくらいなら死んだほうがましだという女の子たち。
それを否定する女の子。
もう、すでに純潔を奪われた女の子。大切な女の子のためにその子を力尽くで犯した男をその手で殺した女の子。

もう、あとは生き残ることしかないと見定める女の子。

走り続ける女の子。ゆけ!もっと高くもっと強く!もっと早くもっと遠くへ!そう叫びながら。

銃弾も黒い男。そして、死んだ人間に白いシーツをかける男。シーツが忍び寄る死でそういう演出が本当に面白い。

粒が立つことばがある。
偶然。偶然戦争だったから。偶然。
こんな世界に色なんてないのかもしれない。
お母さん、ごめんなさい。
お母さん!お母さん!お母さん!

そして、サンとマユ。蚕と繭。

繭が壊れて羽化した蚕。だから私は生きていくことにした。

ぼろぼろに泣いた。怖かった。それでもサンとマユが駆けていくところは少しだけ希望があってさわやかで少しすくいがあるのかもしれない。そう思った。でもマユは死んでそれでもマユがその死でマユにとっては癒された部分もあってひとりのこされて悲しくてでも生きていくって決めたサンがひかりを決して見失ってないからこれでいいんだと思った。

最後に残る、荒い息遣い。生きている。生きていく証。暗転。音楽が止まって呼吸の音も止まる。

全員が名もない役者だった。おそらくはさほど知られていない。
というか私はみたこともないひとたちばかりだった。それがまた良かった。名もない女の子たちの総体的にはきっとあった物語だ。

原作のまんがを読まなければと思っている。でもまだ怖くて読めそうにない。


追記20160106

原作のまんがを読んだ。今日マチ子さんのcocoon
イメージではそれほど原作に添った物語ではないのかな、と思っていた。けれどかなり原作通りだと思った。本筋はまったくそれていない。舞台のようにリフレインを多用されてはいないし、キャストと同じような名前の登場人物は原作には登場しない人物だったりはするが、かなり原作に添っていた。そして、舞台を見たときには解らなかったことがいくつか原作には書かれていた。

とくに驚いたのはマユの正体だ。ネタばれを標榜しているので書くが、マユは女の子ではなかった。これは少女期によくある同性への憧れ、異性への恐れや嫌悪を反映した同性への憧れとしてマユという存在を描いているのだと思っていたけれど、いや、実際に少女たちからすればそうだったのだろうが、マユにはそうではなかったということが原作を読むと解る。けれど、原作の方ではちゃんと種明かしというか、マユの正体を最後におそらくはそういうことだろうと解る形で描かれているが舞台ではそこまでは触れていないのだからマユの正体は舞台のなかでは少女たちの幻想の憧れに添ったものだったのかもしれない。脚本を書いた藤田さんがどういうつもりだったのかは解らないけれど、そこは原作にはそわなかったのかもしれない。それでもマユがサンを犯した男の首を絞め殺したことを考えれば少女たちの夢のような憧れとは異質なものがマユのなかにはあり、そこからマユの正体を汲むことができると、できる観客もいると考えたのだろうか。原作で予習をして見に来たひとには当然のことでも全く原作を読んでいない状態で見たひとには伝わらない情報のようにも思う。それはそれでいいと思ったのかもしれない。

あともうひとつ。重症の兵士に与えられた甘い毒入りのミルクのことだ。原作では看護隊が解散されたのちに看護隊ではないおそらくは軍の人間によって与えられたという説明があったが、舞台ではあたかもこの少女たちが自分たちの意志でないことは明らかではあるが上層部に命令されるまま少女たちが手を下したように思わせるところがあった。それがすごく原作と違って、そのミルクによる甘い殺人があったからこそマユがサンを犯した男を殺したことをどこか自然な流れにしたようにも思った。

あと、銃弾が飛び交うシーンでwowowの映像では赤い短い線の光が大量に行き交っているのだが、それが最初にみたときには実際に舞台でも飛び交っていたのか、そうではないのか判断できなかったのだが、どうやら実際の舞台では舞台の後ろのスクリーンにだけその映像が流れただけでwowowの映像ではさらに加工を加えて画面全体に短い赤い線を飛ばしていたようだ。途中、スクリーンに映る文字がスクリーンだけでなくどう考えても映像として上乗せされて記されていると見えて気づいた。

そして、サンが兵士に犯されるシーン。
舞台で男は「お母さん!」と言い続けている。でも原作は「寒い」だった。その差はかなり大きい。お母さんと言うのはもう少し前、サンが脳症で幻覚を見ているという患者に一瞬抱きつかれるシーンのときだった。
でも、犯されるときに「お母さん」と言い続けているのはすごく重要なことだと感じた。あのしーんに必要なのはたしかに「お母さん」という呼び声だった。

マユが男の子だったとして女の子として育てられた男の子だったのだからマユの中の男の子と女の子が痛い。マユのなかの女の子と男の子が痛いなと思った。そして、マユが女の子として育てられた男の子だったから、そんなマユのなかの行き場のない男の子の存在と破り捨てたくて破り捨てられない女の子の存在があったからこそ、ラストでサンが「繭が壊れて私は羽化した。羽があっても飛ぶことはできない。だから生きていくことにした」そういう言葉がもっと強く、深く響くのかもしれないと思った。マユがただかっこいいだけの普通の女の子ではなく、男の子だということを隠して生きなきゃならなかった女の子ではない男の子だったから。


原作にはなくて藤田さんだけが描いた言葉も多い。原作には添っているけれど原作よりも舞台に乗せられた言葉の方がいいいような気がした。サンが、敵に見つかって純潔を奪われるくらいなら自決すると手榴弾を爆発させた子たちに私は生きるそういったサンのせりふもそうだ。
それにサンが生き残ったあと、恋もできる、子どもを生むこともできると生きていくことにしたあとのことを語るのも舞台のほうだけだった気がする。それも藤田さんの言葉なのだろうな。

そして、さとこの存在はあの時代のものじゃないのかもしれないと最後に思った。現代で夢を見ていたのはサンの役の女の子かと思ったけれど、さとこのほうなのかもしれない。さとこは沖縄の子じゃなかったのかもしれない。だから最後、ひとりしか生き残らなかったはずのサンと同じ舞台の上にさとこがいるのかもしれない。さとこには死の描写がないこともそれを裏付けるような気がする。

ちょっととりとめがなさすぎる殴り書きですみませんが追記でした!