ことはみんぐ

演劇、美術、ミステリ、漫画、BL。趣味の雑感。

彩の国シェイクスピアシリーズ第29弾 ジュリアス・シーザー(過去ログ)

DVD概要

演出:蜷川幸雄

作:ウィリアム・シェイクスピア

訳:松岡和子

出演:阿部寛吉田鋼太郎藤原竜也、横田栄司他

 

 

以下、2016年1月3日にTwitterにて掲載したDVD鑑賞レポとなります。 

 

 注意

  • 何の気遣いもなくネタばれしています。

 

シーザーで出会ったのは思いがけなく?でもないけど、『愛してる問題』だった。そういっても?となること請け合いだ。ちょっと個人的に好きなキャラたちがあまりにも愛してる♡ていってくれなくて悩んでた時期がちょうど一年くらい前にあったとリマインドされたところだったのでとてもタイムリーだったというだけなんだけども、、それでも??という感じだろうなとほんと申し訳ない。
さて話は戻ってシーザーだ。ジュリアス・シーザー。だれもが知ってるローマの英雄。
そう、ローマだ。
ハムレットのラストでホレイシオが「俺はローマ人でありたい!」と言ったあのローマ人だ。
みんなまあはずかしげもなく愛してる愛してる愛してるってもう!
最初から愛の告白大売り出しだった。ローマ人は情熱的ですね。考えてみればローマってイタリアだ。せりふのなかにイタリア人てのが一度出てきて??この時代もイタリアって言ったんだっけ??となったけどそれはどうなんだろうか。
でも演じているのはいくら顔が濃くても()日本人なのでやはりちょっとした抵抗があるのかもしれない。阿部寛さん演じるシーザーと吉田鋼太郎さん演じるキャシアスの最初シーン、ブルータスが「君が僕を愛してる、それを疑ってはいない」とかいうところ、阿部寛さんちょっと照れがあったように見えた。
ちなみにこのシーンでキャシアスのほうが黒幕的だな、と思った。キャシアスがブルータスを操って高潔なブルータスをそそのかしたんだろうな、と。下記してあるがだからキャシアスは白い長衣の下も全身赤なのかと。
そして黒幕的なキャシアスでさえ決してただの悪人ではない描き方をしている。というか、そもそもシーザーもブルータスも悪人とは違う。どこに立ち位置をもつかによって善と悪は簡単に入れ替わる。そういう構図は現代も古代も同じだ。
だれもがリーダーとして慕われていて、そのなかで負けをさとって自らいのちを絶つシーンは切なかった。キャシアスも、ブルータスも自分の信頼する部下に自らを刺させて死ぬことになる。部下にしたら溜まったものじゃない。高潔で清廉潔白で公明正大なひとたちは、自らの名誉という部分において少しばかり自分勝手だ。キャシアスを刺した人は一人旅立ったけれど、ブルータスを刺した人はひとり遺されることを嘆いて結局自らいのちを絶った。まさにハムレットのホレイシオがいうところの”ローマ人”だ。

 

とりあえず戻って、最初のところについて。
最初がすごくかっこ良かった。
まだ客が入りきらない状態、開演に先立ち〜の場内アナウンスが入る直前からキャストがステージに。ちょっと時代が違う感じ。これからローマ悲劇が始まるそれを見る人たちってことなんだろうか??それにまだアナウンスが終わらないうちに脇役の人たちばかりだと思ったのに藤原竜也さんも登場、吉田鋼太郎さんも登場。アナウンスがおわってから阿部寛さん登場、横田栄司さん登場。みんなそれぞれに階段状の舞台装置に位置取りする。そしてドラがガァァァン!全員が立ってお辞儀で始まり始まり〜!
もう一度ドラが鳴って現代っぽい上着を全員がばさっと一気に脱ぎすてるのがすごいかっこよかった!かっこ良すぎる!やばい!竜也さん!!!てなった。

そしてまずは衣装だ。
民衆以外はみんな上は白い長衣を着ている。
下衣はシーザー派が白、ブルータス側が赤になっているらしい。
なかでもブルータス側の人たちは下に赤がちらっとのぞくのが主で上記もしたがただひとりキャシアスは白い長衣の下に下半身だけじゃなく上体にも赤い衣をまとっていてそれがこの人物の黒幕感を表していた、と思った。
あと、ブルータスの奥方ポーシャがスカートの下の太腿を自ら傷つけて流した血もブルータス側という意味で赤い下衣の役割を果たしていた、んだろうな、と。

衣装で解説してくれるのは親切だ。

シーザーのせりふは戯曲をよんでいなくても聴いたことがあるせりふが多い。
有名な「ブルータス、おまえも、か…!」とか。今回の戯曲ではそのままではなかったけれど。
あと「片目に栄誉を、片目に死を」も。これもシーザーのせりふだったのか、と思った。言ったのはブルータスだったけど。

そして、最初の方でキャスカが言ったせりふが印象的だった。
「恐れ戦くのは人間の役目」というものだ。
このせりふが後半で死んだシーザーが亡霊となってブルータスのもとへ現れるときに利いてくる。
ブルータスの部屋でおつきの人たちがはけて小姓的なルーシャスが楽器を弾きながら眠ってしまったあとだ。ひとりになったブルータスがなにかの気配に怯える。そこへ亡霊となったシーザーが現れる。このとき、キャスカの「恐れ戦くのは人間の役目」というせりふを思い出した。
ついでに、亡霊が現れるからルーシャスは眠ってしまうんだろうな。

さて。
実はこのジュリアス・シーザーについてずっと気になっていることがあった。シーザーの公演後に読んだある劇評に書いてあったことだ。
藤原竜也さん演じるアントニーがシーザーの死の直後、民衆を煽る演説をする。その演説のシーンにおいてアントニーはシーザーの死を悲劇的に演出し、シーザーを殺したブルータス一派をのさばらせないよう民衆を煽動しなければならない。
この演説シーンの藤原さんの演技が弱い、というか民衆を、引いては観客を煽らなければならないのにこころに響いてこなかったとその劇評にはあった。藤原さんがたったひとり舞台に立っていて同じく舞台に立っている民衆役の人たちがそこにいるはずなのにそのひとたちと心を通わせてしっかり訴えることができていなかった、と概ねそういうふうに書かれていたはずだ。藤原竜也という役者はいつも一人で人とかかわる芝居が苦手なのだろう、となっていた。だからこそハムレットという自らのこころの内へ内へと深く掘り下げていくような役がはまり役だが、もっと心を開いて見る者に強く訴えるような芝居は得手としないのだろう、と。

たしかに一理あるとそれを読んで私も思った。思ってしまった。だから、シーザーを見るのは少し怖かった。この劇評を書いた方はプロの評論家ではない。年に何十本という芝居を観劇されている方ではあるが趣味でブログに劇評を書いている方だった。それを読んで以来、このシーンを見るのが私は怖かった。この劇評を書いた方はそのあたりでかなりきついが藤原さんの芝居に見切りを付けたというようなことも書かれていたからだ。それはそれで個人の意見でそう思うことも仕方ないだろう。でも私は藤原さんが好きだ。失望はしたくない。そしておそらく失望しない。でもやっぱりちょっと怖かった。

そして見て思ったのはやはり、たしかに一理ある、だ。
もちろん、失望はしなかった。やっぱり好きだ。そこは全く変わらなかった。
けれど、一理あるとは思った。もちろん、その劇評にかなりの影響を受けてもいるので本当に私自身の目で見た正直な気持ちかと言われればいささか自信がなくなるけれど私が思ったのは、台の上から民衆に語りかけていたアントニーの視線の不確かさだった。
アントニーが民衆を見たのは、最初の演説が一通り終わって台を下りるときだった。その瞬間、民衆を煽っていたアントニーがやっと民衆の心に寄り添ったと感じた。そして演説のあいだはこのひとはひとりだったんだと気づいた。これがその劇評を書いた人の感じた部分なのだろうな、と思った。

このシーザーは藤原さんが演出の蜷川さんとそれまでの関係を崩して、どうやらものすごく苦しんで苦しんで泥水を飲むような思いをしてもう一度、一から芝居に向き合うことになった作品だったらしい。
そんな作品で藤原さん自身、公演が始まっても最後の最後まで本当には納得できる芝居をできなかったとおそらくそんなようなことをよく話していたけれど、それを象徴するのが演説のシーンなのかと観劇していない私は思っていた。でも納得がいかないのは決してそのシーンばかりではないんだろうな、と見て思った。彼がいったのは芝居全体だ。苦しんで苦しんで今度はなにかに納得できる芝居にたどり着いてほしい。私は藤原竜也さんが好きだ。彼が納得できる芝居をひとつひとつこなしてこれからも芝居を続けてくれることをただ願っている。観にいくから。これからは、決して映像だけではなくて生の舞台を見に行くから。

さて、さて。話がそれ過ぎているような気がしないでもない。

この芝居でダントツだったのはキャシアスの吉田鋼太郎さんだ。
すごかった。かっこいいし可愛いし、客席におりて通路側の女性の(ここ重要w)お客さんにせりふ耳もとで言いながら髪の毛にすりすりしてるし弾けて面白い!と思わせる部分も、シリアスなところもダントツで吉田鋼太郎さんが良かった。
ブルータスとのシーンはキャシアスが恋する乙女もとい恋するおっさんに見えた。ごめん。かわいい。

なにはともあれ、映像でも見られてよかった。
DVDが出ているのでご興味おありの方はぜひ。