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ことはみんぐ

演劇、美術、ミステリ、漫画、BL。趣味の雑感をのこすために。

レミング(過去ログ)

公演概要

作:寺山修司

演出:松本雄吉

出演:溝端淳平柄本時生霧矢大夢麿赤兒

www.parco-play.com

 

観劇公演

2016年1月8日マチネ

愛知県芸術劇場

 

以下、2016年1月9日にTwitterにて掲載した観劇レポとなります。

 

 注意

  • 何の気遣いもなくネタばれしています。
  • 他の演劇作品にもネタばれを含む内容で言及しています。

 

レミングレミングという小さなネズミがいる。レミングの公演時間を調べるためにぐぐると常にそのネズミが最初の画面に現れる。だからなぜネズミなのかは解らなかったがレミング=ネズミだと思っていた。実際、劇中にもネズミが出てくるし、せりふのなかにはネズミというものを学術的に解説するようなものもある。でも、観劇が終わって落ち着いたカフェでパンフを開いて上演台本を手がけられた天野天街さんの頁をチラ見してそこにREM-INGというものを見つけた。REMはレム睡眠、つまり体は眠っているが脳は覚醒している状態にある浅い眠りを表すものだ。夢というものが劇中のキーワードになる。ならばレミングはネズミではなく、夢から作られた言葉だったのかと初めて気づかされた。しかし、今しがた出来心でネズミのレミングを調べてみれば面白いことが書いてあった。レミングは長く集団自殺をするネズミだと考えられていたのだという。そういえばそんなネズミいたな、と思ったがそれがレミングだったのかと改めて知った。それはともかく、集団自殺するネズミである。なんだかこれも絡めてありそうな気がする。直接的に集団自殺するシーンなどなかったが死のにおいはたしかにある舞台だった。

舞台は最初歌で始まる。
まだ緞帳が下りたままのなか女の子の歌が流れ出す。その直後、下手の脇からひとりの男の人が現れて舞台の下に設置してある音楽ブースというかベースに腰を落ち着け青いエレキギターを手にする。出演者かと思ったがどうやら音楽を担当する方だったようだ。ギターを弾いているところは客席の影になって見えなかったが、あの方がすべての音楽を手がけていたのだろう。
そして、歌が始まった瞬間、えっちゃん…!となった。
つい最近映像で見た藤田貴大さんのcocoonでえっちゃんの役をやっていた青葉市子さんの声だった。一緒に見に行った方にえっちゃんが出ていると直前に聴いていてそうか、えっちゃんでてるのか〜と思っていたがえっちゃんが歌っていて驚いた。もともと役者さんではなく、シンガーだったと今回初めて知った。ほわほわとしたそっとやさしく寂しく響く歌声は美しくてえっちゃんがcocoonでふんわりと話していたものと同質で異質だった。

 

そして舞台の幕が開ける。
ステージのうえにある階段がついたもうひとつのステージ。その階段にえっちゃんが座っていた。なにか建築模型的な四角くて形の変わるものを持ってたばこをふかして。

最初のシーン、皆灰色の服を着た雑踏のシーンだった。
印象的なのはタップだ。シンクロした動きと足音を踏みならすリズム。
狂言でいうところの足拍子を思い出した。だんだんと足を踏み鳴らすものだ。お祭りで演じられる神楽とかにもよく出てくるけれどああして大地を踏みしめ、足音を高く踏みならすことは祓いになる。なんだかそういうイメージも重なってきた。

この舞台はストーリーを追うタイプのものではない。いや、ストーリーが追えるのならば追いたいのだが、転々と転がっていって全く追いきれなかった。私は基本的になんにでもストーリーを求めるし、ストーリーを追ってそのなかから作者が演出者が役者がなにを言いたいのかを考えるタイプだ。でもこの舞台はそういう手法が通用しない。それでも音と言葉の洪水がどんどん舞台に引き込んでいく。結果、結構面白かった。ストーリーを追えないということは登場人物に感情移入がしにくいということだ。たしかにだれかに感情移入をして舞台に感情を乗せるという見方にはならなかった。しかし、決して感情を動かされなかったわけではなかった。
シンクロする動きと重ねられる言葉。寂しく響く歌声。心臓を叩くような大音量の音、音、音、そして怒濤の言葉言葉言葉。
振り返るとやっぱり面白い。というか、そもそもわけが解らないものというのは基本的に面白い。解らないということは解るための道程があってそれをひもといていった先には一種のカタルシスがあるということだからだ。解らないということはだからワクワクする。

そういえば、一緒に見に行った方が、観劇前に話していたなかで全く関係ないのだけれどミステリ系の連ドラで1時間で1話終わる話があまり好きではないと話されていて、それがすごく面白い感覚だなと思ったのだけれど、その方は1時間という時間のなかで物語が解決してしまうのが嫌なのだという。あともう十五分でどうせ解決してしまうと思うとそれがどこかつまらなく感じてしまうというような感じらしい。だから二週に渡って話が続くタイプのものが好きだと言っていた。すぐに事件が解決されてしまうのが面白くないのかもしれない。今このレポを書いていてだから彼女はこのレミングをおもしろいと思ったのかもしれないと思った。レミングはなにかを提示してもそれをこういうものだ!という断定をせずにどんどん話が流れていく。そういう感覚が彼女の感覚とぴったりはまったのかもしれない。せっかくだから来週の大阪も見に行かれたらどうだろうかとちょっと思っている笑

さて話を戻そう。
レミングのなかにテーマとして存在していたのは、夢、壁、そして母親だ。
そもそもレミングというこの話はなにもかもがすべて夢の出来事なのかもしれない。だれが見た夢か。それは登場人物それぞれであり、たぶん、この世界にはいなかっただれかであり、作者自身である寺山修司本人でもあるかもしれない。夢、つまりなんでもありだ。時間が飛ぼうが場所が飛ぼうがなんの制約もない。そして制約がないというところで通じるのが壁だ。展開のなかで壁が消えるというシーンがある。下宿の隣の部屋とを仕切っていた壁が消える。壁が消えるとだれもが簡単に入り込んでくるようになる。制約がない状態だ。そして制約がないということはどこまでも自由で自由であることはとても怖い。だから壁はなくてもやはり現れる。そして現れても壁は穴をあければ簡単に壁ではなくなる。書いているとさらに混乱が増すが、そういうわけの解らないものをものすごい勢いと大音量で観客に叩き付けてくる舞台だった。それでも抑えるところは抑えていてその抑揚がちょっと不気味でやっぱり目が離せない。
そしてなんかすごかったな、とかなり小並感な感想が零れ落ちる。

夢、壁、そして母親の母親は人間、とくに男の子は切っても切れない母親だ。
性差みたいなものは見ているあいだはなにも考えなかったけれど今考えてみると母親を捨てられないのはやっぱり男でだからこの話を書いた人も演出したひとも息子を演じたのも男性なんだなと思った。

そして、この作品を通して今までに見た芝居をいくつか思い出したのが見ていて面白い感覚だった。
まずは、身毒丸。特に通じるなと感じたのは三人ずつに別れた着物を着た女の子が六人、花一匁のような遊びをしながら誰がほしい誰がほしいと言い合って立ち位置を入れ替えていくところが身毒丸のかるたのシーンを彷彿とさせた。そもそもレミングでも母親というものの存在がテーマのひとつで身毒丸もそうだ。切っても切れない母親という存在。身毒丸を思い出すのもむりはない。もちろん、身毒丸寺山修司の流れを汲んだ芝居なのでああ、近いなこの世界と思うのも当然だろう。

それから、以前wowowで放送されていた唐版滝の白糸もどこか近い感覚がした。同時代の人たちによる演目ということもあるのかもしれない。私が見た唐版滝の白糸は、お甲役を元宝塚の大空祐飛さんが演じていて、その存在感がレミングで影山影子を演じられた霧矢大夢さんと被ったからなのかもしれないが、時代感が近いからでもあるのかもしれない。

あと、カフカだ。海辺のカフカ
カフカの持っていた時間と場所を超越したような不思議な感覚がやっぱりレミングにもどこかあって見せ方は全く違うのだけれどなぜかカフカも思い出した。ずっとライフルを抱えていた女の子の存在感がカフカのなかに登場したちょっと不思議な人たちと共通するという感じもあった。

そして、これが少し不思議だったのだけれどつい最近やはりwowowで放送されていたものを見た藤田貴大さん演出のcocoonも思い出された。cocoonには上記した青葉市子さんがえっちゃんという役で出演もしていた。だからcocoonが出てきたわけではおそらくない。cocoonのなかのリフレインとか直線的な動きとかかが通じると感じたのかもしれない。そしてやっぱりお母さん!だろう。cocoonでもお母さんという存在、その言葉自体がとても重要だったからだ。

こんなふうにいろんな作品を思い出すというのも面白い感覚でレミングのなかにある寺山エッセンスのようなものが演劇界にはやはりどこか根底に流れていて今演劇というものをやっている人たちは意識無意識にかかわらずそういうものをどこかで汲み上げて自分のなかに飼ってしまっているということの現れでもあるのかもしれないと思った。

さて、全体はそんなものであとは個別に気になったところを。

背景に宇宙の景色が浮かぶシーンがある。宇宙人と交信するひとができたりもするが、その宇宙と一番に呼応したのは、囲碁の大家さんのシーンだった。無機質な声でせりふを重ねながら碁を打つ男たち。あのとき背景に宇宙の景色があったのかどうかは記憶がない。けれどあの囲碁のシーンが一番宇宙だった。

そして、影山影子役の霧矢大夢さんが圧巻だった。歌い出された瞬間にさすが宝塚!すごい!と思わず目を見開いた。あの存在感はさすがとしか言えない。歌もうまいし、ダンスもうまい。
彼女が登場するとすべてをかっさらっていく感がすごかった。

あと麿赤兒さんのお母さんがすごかった。インパクト抜群だ。千と千尋の神隠しが出てきた仕方なかった。湯婆婆とあのおいおい言ってるだるま落としのだるまが融合したようなお母さんがすごかった。床下で畑を耕しているお母さんを役所に見つからないように隠している、いわゆる姨捨伝説と絡めた設定もすごいけどなにより麿さんの存在感がすごかった。

それから乱歩の屋根裏の散歩者だ。ふたりでてくる郷田三郎。意味は解らないけれど屋根裏の散歩者の冒頭とせりふがほぼ同じで帰ってから確認して本当に同じで面白かった。

常にライフルを持って概ね舞台の上にいた女の子の存在。これも面白いものだった。このひとにはきっとなにか意味があるような気がする。でも一度見ただけではそれを掴めなかった。けれどこの世界にあっては決して異質ではないけれどどこかやはり異質なこの存在は面白い。転々と展開する世界のどこにでも存在できる壁を取っ払ったそれこそ壁を抜けられる、壁抜け男ならぬ壁抜けライフル少女という感じだ。彼女が通奏低音として存在し、同じく上記した青葉市子さんの演じた少女も決して交わる存在ではないのだけれど通奏低音として存在していた。ライフル少女が地の存在なら歌う少女は天の存在だろうか。このふたりは平行世界に存在していて交わらないがこの世界にはどちらも必要でやっぱり異質だった。

そして、主演のたろを演じた溝端淳平くん。二ヶ月前に見たヴェローナの二紳士では娘役のジュリアを演じていた。ジュリアが本当に可愛くてそんな彼がどういう演技をされるのかとても興味があった。そしてまず思ったのは、声のトーンがジュリアと結構通じるものがあるということだった。演じ分けができていないとかそういうことではなく、もともと声は高めなのかもしれない。もしくは演劇マジックでジュリアを演じていたときは声の高さとかそういうことではなく、芝居としてちゃんと女の子に見えていたから彼はジュリアでしかなかったということなのかもしれない。
たろの芝居で面白かったのはどこかのへんてこな役所のなんちゃらなんちゃら課から派遣されてきた測量士に両脇から立て続けに話しかけられるシーンでたろは座って前を向いたまま頭もまったく動かさないけれど瞳だけをせりふをいう人が入れ替わる度にきょろきょろと両端へ向けるところだ。わ!きょろってした!と細かい芝居に面白いなと感じた。でも、この芝居は群像劇で溝端くんの役が主演ということにはなるのだろうが彼ばかりが目立ったりクローズアップされるわけではない。そして最初トーンが近い!と思ったのも束の間、そこにいたのはもうジュリアではなくてなんだか解らない世界で生きているひとりの青年だった。相手が母親という点を考えるといささか複雑だが一緒に煙草を飲むシーンとかちょっとアンニュイで色気を感じるシーンもあってなんだかドキドキもしたし、観劇後に溝端くんがどういうことを考えて芝居をしているのかということを話してうっかり泣くという事案が発生して今後も彼の芝居には注目していこうと今回改めて思った。

それからパンフレットを読んで柄本時生くんが「せりふって言えないものだ」と感じているというところが演劇というものに対してとても真摯で決して満足しないその姿勢が溝端くんにも同じようにあってこのふたりが組んでこの芝居に臨んだことはとても面白いことだったのだろうなと思った。柄本時生くんは去年NHKでやっていた本棚食堂というドラマが私はとても好きで以前からあの存在感がとても良いと思っていたけれど溝端くんがパンフのインタで答えていたようにどこか飄々としていて今回の芝居もすんなりこの世界にとけ込んでいてとても良かった。

また、柄本時生くんのパンフのインタで演劇というものは無音で言葉とだけ向き合う世界だと思っていたというものがあり、私もどちらかといえばそういう世界のほうが馴染みがありこの世界が知らないことばかりで刺激的だったというのにとても頷けた。
この世界は言葉と音の洪水でできていた。
劇場に身を置いて体感しなければ味わえない面白さがたしかにあった。

ちなみに。私の見た席は7列14番というところだったのだが、劇場の床がかなりフラットで7列目にしては舞台が高く、見上げる体勢になったため観劇後首が多少痛くなったことがネックだった。首だけに、ではない。
しかし、カテコ3回目に溝端くんがはけていくとき、スタオベをしていたひとたちに笑顔で手を振っていく姿はとても可愛かった。私に振ってくれてる〜!とばかな勘違いをしてすみませんでした!面白かったです!