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ことはみんぐ

演劇、美術、ミステリ、漫画、BL。趣味の雑感をのこすために。

とりあえず、お父さん②(過去ログ)

観劇公演

2016年1月28日マチネ

東海市芸術劇場 

 

 注意

  • 何の気遣いもなくネタばれしています。
  • 公演概要とストーリーは以下の過去記事を参照してください。

kotohumming.hateblo.jp

 

以下、2016年2月6日にTwitterにて掲載した観劇レポとなります。

 

愛知はまず、席が良かった。
最前でこそなかったけれど、2列18番という2列目のセンターのど真ん中だった。だた、斜め前の人が男性でちょっと下手側、つまりベッドのほうが斜め前の男性の頭で見えにくかったけれど舞台は近かった。
さて、私が萌えポイントをレポしても手抜かりしかないので東京で見たときと愛知で見たときの印象の差から感じたことをとりあえず、したためたい。

 

『とりあえず、お父さん』はそもそもシナリオがちゃんと面白く、嘘に嘘を重ねながらそれを徹底してグレッグとシーラに気づかれないよう導き、最終的にシーラには知られても結局グレッグのことは騙し通して、決して破綻せず結構ブラックなところへ落とし込むというよく出来た作りをしている。東京で12/12のマチネを見たときはそのシナリオの面白さを楽しんだ。見たときにかなりせりふが頭に入ってきたのも流れがきちんとシナリオ通りある意味、型にはまった状態で演じられていたからだと思う。だから東京で見たときも面白かった。けれどそれはシナリオの面白さというものが基本だった。そしてたぶん私はそういうものになじみがあり、思考回路的に理解がしやすい気がする。だから東京でみたときは安心して楽しんで見られた。

けれど愛知で見たときはシナリオをほぼ意識しなかった。最初のグレッグとジニィ二人だけのロンドンの部屋でのシーンくらいまではまたシナリオを少し追っていたけれど、場転してフィリップとシーラが出てきてからはシナリオを追う見方をしなかったように思う。いや、しなかったというよりは出来なかったというほうが正しいのかもしれない。シナリオを追って嘘つきの物語として見ることより、舞台上の役者に引き込まれた。なにしろ面白かった。東京で見たときよりもかなりオーバーアクションになっていて、特に柄本さんに引きずられた。あの人の芝居は人を笑わせることを目的にしていた。こういうとちょっと語弊があるだろうか。でも柄本さんの芝居に持っていかれたのはたしかで決してわざとらしく笑いを誘うための演技をしていると意識させはしないのだが観客が笑うことで完成する芝居だったのかもしれない。そしてそもそも、東京で見たときから柄本さんが出てくるとせりふが頭に入ってこない感じがあった。東京で見た直後に書いたレポは基本的にストーリーを追っていて、ストーリーを追うことで自分の覚書として成立させたレポとは呼べない代物になっているのだが、後半の記憶力が一気に低下していて筋をちゃんと追えていない。それは個人的に柄本さんのせいだった。柄本さんが出てくるとなんだか解らない勢いに押されてもともとない記憶力が明後日の方向へ飛んでいってしまう感じがあった。愛知ではそんな感覚がさらに強かった。これはどういうことだったのだろうか。あてられた、というか、飲まれた、というかたぶんその存在に圧倒されたのだと思う。なんだかすごい人だった。終わってみて今こうしてレポを書いていてやっとそこに行き当たった気がする。すごかった。

『とりあえず、お父さん』はたしかによく出来たシナリオをしている。でもよく出来てはいるがものすごく深く心に刻み付けてくるものがある物語かと言われるとそうとは言えない。こう言ってははなんだが、残るのは、面白い!え!?ジニィひどくない??くらいなものだ。それは決して悪いことではない。すごく印象に残っている公式のツイートがあるのだが、雨宿りにちょと劇場に立ちよってさらっと楽しんで帰れるような作品、というようなものだったと思う。本当にそういう作品だった。二時間弱の時間、気軽に笑って楽しんでなにかを深く突きつけられたり、自分で突き詰めたりせずに本当に気軽に楽しめるということは素敵な時間だ。そしてそういう気軽なコメディだからこそ、役者はどれだけお客を笑わせられるか、というところを重視したくなるのかもしれない。愛知は二度目で筋は頭に入っていたから私としては筋を追う必要がなかったため、初回よりさらに気軽に楽しめたからそう感じただけだろうか。その可能性はある。けれど、フィリップを演じた柄本さんを筆頭に笑わせるということを念頭においた芝居へと公演を重ねるうちにシフトしていったのもおそらく事実だと思う。
愛知公演はなにしろ面白かった。笑って笑ってお腹が痛くなるくらい笑った。
気持ちを楽にしてまったく身構えずに笑える舞台というのも楽しくて良い。喜劇として正しい作品だったと思う。
シェイクスピア演劇のようなせりふやシナリオをきっちり踏襲することで観客を楽しませる芝居とはたぶんかなり違う。そもそも私は今までに見た数が圧倒的に少ないので比較は難しいのだけれどなんとなくそういう感じがある、ような気がする。
東京で見たときはシナリオをきっちり演じてる感が強かった。それは始まってまだ一週間ちょっととまだ前半の方だったからだろうか。しかし、上記したが演じるうちにどんどん観客が筋を意識せずとも楽しめる方へとシフトしていったのだろう。

そのなかで私が東京でみたときと愛知でみたときと特に違う印象をもったのがグレッグとシーラのシーンだった。ひとつはグレッグが遺憾なくコミュ障を発揮したタクシーの運転手にさえいいたいことが言えなくて行き先を伝えられない…!パクパクパクパクあはは〜みたいなシーンだ。遺憾なく発揮されたコミュ障のために半ば白い目を向けるシーラにやめればいいのに言葉がでてこないといいながらしゃべり続けるグレッグ。このシーン、実はとても難しいのでは?と勝手に思っている。あのシーンは芝居としては止まるシーンだ。そもそも、グレッグの言葉を受けるシーラも、あ〜、なんかめんどくさいのに当たっちゃったわ〜と思っいるし、芝居として白けなければならないシーンだ。観客にもシーラは白けているのにそれに気づかず捲し立ててめんどくさがられると正しく認識させなければ、微妙な空気が流れかねない。わざと躓いて流れを停滞させる作用がある。そしてだからこそとてもテンポが難しい。シーラと同じく観客を白けさせず、かといってシーラのことも白けさせずにおいては意味がなくさじ加減がとても難しそうだ。東京でみたときは、見てるほうがもじもじして落ち着かない気分にさせられた。なんというか、コミュ障というひとつのアイコンをもったキャラクターとして成立しきれていないといったら失礼かもしれないが、コミュ障感よりただテンパってるだけでコミュ障まで行かない感じに見えた。グレッグからしたら彼女の母親と差し向かいの状況で当の彼女から紹介すらされていない状態だ。もともとメンタルが強くない人間ならばキョドって当然だ。その当然なラインまでで芝居をしていたのが東京でみたときの感じだった。やはりシナリオ重視でシナリオのなかの型に合わせた感じと言えばいいだろうか。でも愛知ではシナリオを振り切っていた。愛知のグレッグはちょっとテンパってしまっただけの緊張しいな青年ではなく、たしかにコミュ障な青年だった。距離感があまりにも掴めなすぎて逆にずかずか踏み込んでしまうような舞い上がりっぷりは本当に面白かった。喜劇、いや、コメディとして正しく素晴らしい振り切れた芝居だった。シーラ役の浅野ゆう子さんの受け方も良かった。どちらも巧くテンポを掴んでいて笑いの起こるタイミングがばっちりだった。

そしてもう一ヶ所、ラストに近いあたりのやはりグレッグとシーラのシーンだ。シーラがジニィを自分の娘ではないと否定するシーン。東京ではグレッグが本当にジニィを心配していてむしろ、シーラひどい!(T^T)ジニィ可哀想…°・(ノД`)・°・と、頭ではジニィが嘘つきでシーラはただ本当のことを普通のこととして言っているに過ぎないと解ってはいた。それでもグレッグが怒って哀しんでいることに気持ちが引きずられた。しかし、愛知で見たときはそんなことにはならなかった。グレッグもシーラも芝居がたしかに変わっていた。どちらも自分の信じるところを訴えていたけれど、愛知のときはその裏にあるジニィとフィリップの嘘が芝居として伝わって、解ってるのにグレッグと同じくジニィに同情したりはしなかった。代わりにすごく面白かった。勘違いが行き違ってちゃんと笑いへ転化していた。そしてこれが正しい見せ方だな、と納得した。わざわざステージから降りて客席の通路をぐるっと一回り嘆きながらするオーバーな芝居もすごく意味があると思っ
た。ちょっと赤城さんぽいなとも思ったけれど(笑)でも、あんなふうにオーバーアクションでくるからこそシーラが結局やっぱり自分の娘じゃないと言って落とすところが本当にとても面白かった。めりはりが十分に効いているということだろう。

ちなみに、グレッグはひょいっとステージから降りてひょいっと一歩でステージにあがっていたのでそれがすごくかっこ良かった。です。さすが!

シナリオ重視な感じからそうじゃない、もっとその場の空気みたいなものを重視したというか、演者のなかにある楽しませたい!楽しみたい!という気持ちがどんどん引き出されてきたというか最終的にはそういう芝居になったのかな、と思った。
やっぱりコメディだからだろうか。
でも、これを書きながら、お正月に放送された蜷川さんのドキュメンタリーのなかの一節をずっと頭のなかに置いていた気がする。
蜷川さんは竜也さんに息を抜けと言った。息を抜ける芝居ができるといいって。ずっと最初から息を詰める芝居を教えてきた。でも、今はそうじゃなくて息を抜ける芝居をしてほしいからって。そしたらもっと息を言葉に変えられるって。
この芝居を二ヶ月、三ヶ月やり通してそういうことを考えただろうか。息を詰めずに言葉に変える。ハムレットとお父さんではまったく違う演目だけれどむしろ、蜷川さんの言ったことを実践する場としては向いていたのかな、と思ったりする。ちゃんと必要なものがその時々に舞い込んでくるものなのかもしれない。とはいえ、こんなのは勝手な憶測で的外れも甚だしいかもしれないけれど。

しかし、いつだってシナリオ重視でストーリーを追うなかでその時々の感情を探ろうとする私がそういうくせみたいなものを半ば放棄してめっちゃ笑いながら見ることが出来たというのはそれはそれで面白い観劇体験だったような気がする。とりあえず、お父さん面白かった!!

 

追記
そういえば東京で見たときは冒頭のジニィの部屋のシーンでグレッグはどちらかというとへらへらしていて怒ってもいるけれどへらへら感が強かったけど、愛知ではちょっとカリカリ感も強めでへらへら減ってたような気がする。なんだろ?気分かしら?

あと、竜也さんてお酒好きなわりにさほど強くないのかなー?
もともと飲める質じゃないひとが慣れで飲めるようになるのってあんまり体に良くないからお酒はほどほどに。と思ったり。

以上、雑感。