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ことはみんぐ

演劇、美術、ミステリ、漫画、BL。趣味の雑感をのこすために。

元禄港歌(過去ログ)

公演概要

作:秋元松代

演出:蜷川幸雄

出演:市川猿之助宮沢りえ鈴木杏高橋一生

www.bunkamura.co.jp

観劇公演

2016年2月13日マチネ

シアターBRAVA!

 

以下、2016年2月20日にTwitterにて掲載した観劇レポとなります。

 

 注意

  • 何の気遣いもなくネタばれしています。

 

まだ客席がざわつき、ライトも点いたままのときからざーざーと波の音が響きだした。舞台の幕はたぶん開いてなかった、と思う。緞帳の色とか柄とか全く記憶にないのでほんとに開いてなかったのか自信はないけれど、両端に天井まで伸びて舞台の上部を覆うような大きな椿の木が現れたと思った瞬間があったのでたぶん幕は最初閉じていたのだと思う。椿の木が現れた瞬間、驚いた。そして同時にすごく美しい舞台装置だと思った。でも、ただ美しいだけではない。椿だ。椿といばぼと、ぼと、と花弁だけを散らすのではなく、散るときには花そのもののまま枝から落ちる。それを昔は首を落とすというような表現をし、武家の屋敷では嫌われたなどということも聞くけれど、そんなふうに舞台の椿もぼと、ぼと、と首を落としていくつもいくつも赤い花を散らせていった。この装置による演出のどこか毒々しくどこか不吉な美しさにもとても驚かされ、椿が首を落とす度に気持ちが物語へと引き込まれていった。すごく美しかった。そして美しいものは残酷でもある。

 

椿の舞台装置に気を取られて肝心な美空ひばりの歌を置いてけぼりにしたけれど、歌は客席が概ね落ち着くとまだ幕が開かないうちから波の音に変わって流れだした。最初のその声の低さに違和感というか、私のなかにある美空ひばりという人の歌との違いを意識した。そしてたしかに音としても低いのだけれど、ただ音域が低いということではなく、その歌声のなかにどうしようもなく込められた暗さ、切なさ、哀しさが私の知っている美空ひばりという人の歌と合致しないのだと気づいた。美空ひばりが亡くなったのは私が小学校に上がったかもうちょっとしてからか、まだ十歳にはなっていないころだった。そのころ、私はまだ美空ひばりというひとの歌をよくは知らなかった。ただ、その葬儀にものすごい数の人が行列をなして参列した、というニュースかなにかの映像の記憶が実は残っている。そのときすでに死というものをそれなりに理解していたのでお葬式にそれだけたくさんの人が集まるとはどういうことなのか、それだけこの人を好きだった人がものすごく大勢いたのだろうな、とぼんやり理解し、美空ひばりという人は偉大な存在だったのだろうと認識した。大げさに言えば幼い私のなかに美空ひばりというひとがすごい人だという認識が植えつけられた瞬間だ。以降、美空ひばりというひとの歌にも興味を持った。とはいえ、そもそも家族に美空ひばりのファンがいたわけでもなく、家でその音楽が流れることもなかったのでたまにテレビで流れてくる『川の流れのように』という曲くらいしかしらなかった。だから、私のなかにある基本的な歌は『川の流れのように』だった。この曲は切なさはあるかもしれない。哀しさもあるかもしれない。でも、底の知れないような暗さはない。どちらかといえば私には優しく語りかけるような慈愛という言葉が近い音楽だった。だからそういう優しい歌の人というイメージがそれから二十年以上経った今でも私のなかにはあって元禄港歌のオープニングソング(というとなんだかえらく軽いのでやめた方がよさそうだけれど)として流れ出した瞬間、違和感を感じた。けれど、私のなかの美空ひばりの認識とはたしかにその歌は齟齬を抱かせたが、舞台との調和は今考えれば良くとれていた。歌が流れだしてしばし、ようやく場内の明かりが消えた。そして、舞台の真ん中でぼんやりと浮かび上がる人形と人形遣。歌にあわせて女性の人形が舞う。おそらくは子を失った母の哀しみを舞ったのだと思うけれど歌の歌詞とは直接呼応はしない。ただ歌声のなかの哀しさ、暗さはひらひらと舞う人形にもたしかに宿っていた。
そして人形と人形遣が去ると舞台全面に明かりが点り、椿の木が現れた。たぶん、歌と椿もその存在が呼応するものだった。

歌が終わると客席を前後のブロックに別ける真ん中の通路へと繋がる入り口からわらわらと役者たちがでてきた。商人や、念仏を唱えて歩くひとたち。舞台にまず顔を出すメインキャストは金持ちの商家のぼんぼんである万次郎に扮する高橋一生さんだった。なぜか船に乗っていた。威勢のいい若ぼんだ。
けんかがはじまり、賑わう港町の雰囲気。
高橋さんは映像では好きでよく拝見していた。けれど映像でよくお目にかかっていた役はどちらかといえば静かに微笑んでいるような、もしくはどこか影のあるような金持ち商家のちゃらんぽらんな若ぼんというイメージは今までになく、かなり新鮮な役周りだった。ただ、声が生で聴いたら映像で聴き慣れていた声と違って一瞬、この人本当に高橋一生さんかしら?と思ってしまった。それが今でもちょっと不思議だ。個人的にちょっとしたくせみたいなものがあって昔からあまり人の顔を上手く見分けられないので身近な人でなければないほど声を頼りに記憶するところが私にはある。なのでそれなりに声は聞き分けられるほうだと思っているだけれど、高橋さんは映像でお目にかかっていた今までの記憶と舞台でのお声がなぜかあまり合致しなかった。役柄のイメージというものもあってかなり弾けたような声を出されていたからそのせいだろうか。ちょっと不思議な感じがしたけれど悪くはなかった。今回、元禄のチケットが一ヶ月近い公演があった東京でも早い段階からよく売れたのはこの高橋一生さんがご出演されたからだというような話を聴いてやはり人気なのだな、と思ったけれど、高橋さんが登場された瞬間、拍手が起こっていたのできっと高橋さんファンの方も劇場には多かったのだろう。

そう、拍手だ。高橋さんだけではない。段田さんの登場でもさらに大きな拍手が起き、やがて猿之助さんとそして瞽女鈴木杏さんや宮沢りえさんの登場の段になるとさらにさらに大きな拍手が起きた。役者が登場する度に拍手が起こるというのもおそらくは猿之助さんが出演していたことが影響しているのだろう。映像で見た、蜷川さん演出市川猿之助さん主演のヴェニスの商人でもそんな感じで歌舞伎っぽいなと今回も感じた。それに今回は歌や三味線がふんだんに盛り込まれた舞台だったため、猿之助さんたちが最初に登場したときも三味線を鳴らしながら歌って登場という状況で拍手の次は手拍子だった。段田さん登場からは拍手につられ、さらには手拍子にもつられて私もしてしまった。こういう歌舞伎っぽさのある客席との一体感も普段の観劇とは違って楽しかった。

上記したが、猿之助さん率いる瞽女集団の登場シーンでは先頭を行くのは鈴木杏さん演じる歌春だ。この歌春、とてもきらきらしていてとても可愛くてすごくよかった。お三味線もふりではなくちゃんと弾いていたのだと思う。

私が観劇したのはQ列20番という後ろから数えたほうが早い列のセンターブロックのほぼ真ん中という席だったのだけれど、客席の後ブロックのなかでは前から6列目で演者が前後ブロックのあいだの通路を通るときにはそれなりに近くなりその表情がとてもよく見えた。
なので瞽女集団の登場シーンではスポットを浴びて先頭を行く杏さんの表情もよく見えた。弾けるような笑顔で本当にきらきらしていてとても可愛くて、そしてなにより声がよかった。張りのある歌声はほかの瞽女役の方々より一人飛び抜けて場内に響き、素直にすごいと思った。そういう最初の好印象もあり、今回の芝居では鈴木杏さんが私はとてもすてきだと思った。瞽女一座の末娘という立場上、明るく華やかでどこかまだ天真爛漫なようすを残しながら、それでもひとりの女として隠しきれない影があって艶があってとてもよかった。

そして宮沢りえさんだ。今回元禄港歌を見ようと思ったのは第一に蜷川さんの作品だったからだ。次が、去年、蜷川さんの海辺のカフカで衝撃的だった宮沢りえさんが再び蜷川さんの作品に出演されるとしったからだった。もちろん、猿之助さんの芝居も生で見てみたかったというのも大きな理由だったけれど上記の二つが最初の気持ちだった。
宮沢さんはやはり美しかった。けれどカフカのような硬質な美しさより今回はもっと血の通った柔らかな美しさだと思った。そして声が可愛かった。瞽女とは目の見えない女性がお三味線を担いで町を渡り歩き、家々を周り門付して歌を聴かせてはお金をもらってあるくいわば旅芸人のようなものだ。愛嬌がなければ日銭稼ぐこともできず、一座の生計は成り立たない。どこか寂しい笑みを浮かべる宮沢さん扮する初音も美しいけれど近よりがたいほど硬質な美しさではなく、儚さと哀しさを持った柔らかい可愛らしさがあった。カフカとは随分と雰囲気が違う。やはり役者、それでもこちらはこちらでとてもきれいだった。

少しあらすじに触れておくと、話は葛の葉子別れを題材にしている。
もともとは浄瑠璃だろうか。葛の葉伝説というものからきている話だ。ほんとか嘘か信太の森のお狐様が人間に化けて人間の男とのあいだに息子をもうけたが狐とばれて夫と子どもをおいて森に逃げ帰る。それがいわゆる安倍晴明の出生の秘密みたいな話だ。(かなり適当←)
それをもとにして元禄港歌は出来ている。

瞽女の座主である糸栄は若い頃はそれもう美しく、どうやら糸栄たち一座が贔屓にしてもらっている筑前屋の現当主平兵衛とも関係があったらしい。そしてどうやらその平兵衛とのあいだにもうけたのが筑前屋の兄ぼん、信助だ。
信助は小さいころからなさぬ仲の母親、お浜と上手くいっていなかった。そもそも筑前屋はお浜の家で現当主の平兵衛は先代では番頭を務めていたが商売に見所があるからと先代の娘お浜の婿になった。けれどそこに現れたのが瞽女の糸栄で生まれた子が筑前屋とは血のつながりのない信助だったが、筑前屋の先代が生まれた子には罪はないとして筑前屋の子として信助を育てることになった。たまらないのはお浜で自分の子でないどころか夫を寝取った女の子どもという立場の信助をかわいがるようなことは決してしなかった。結果、信助は家族の情を心底知って育つようなことにはならず、寂しい、けれど商売をきちんとやる商家のぼんぼんというよりは奉公人のような男に育った。話はその信助がしばらく江戸の店をまかされていたけれどようがあって地元に戻ってきたところから始まる。そこへ瞽女の一座がちょうどやってきて、喧騒のなか転んでひとり残された盲目の初音を信助が助け起こしたことでふたりは恋に落ちる。
初音は瞽女の座主、糸栄の娘だ。もちろん、実の娘ではない。座の娘たちはみな糸栄の娘だけれど、血のつながりのある者はひとりもおらず、みんな捨てられたりもらわれたりしてきて娘たちだ。そのなかには目の見えないものも見える者もいる。
糸栄の一座は毎年ここへ巡ってくるとそうするように筑前屋の座敷に呼ばれ、歌を披露する。しばらく江戸にいっていた信助は幼い頃に瞽女の一座を見たりその歌を聴いたことはあってもそのお座敷は初めてで糸栄たちとも初めて対面した。
そこで歌われるのが葛の葉子別れだ。
信助は糸栄の歌う葛の葉子別れにこのひとこそ自分の母親なのではないかと疑いを持つ。そしてそれが真実だと初音との恋を深めながら気づいてしまう。
しかし、すでに糸栄や初音とは立場の違う大きな商家の長男である信助は母を慕い、初音に焦がれる気持ちを抑えてどのみち報われない思いだからとすぐにでも江戸へ戻りたいと父に訴える。
そんななか、糸栄ももうひとりの娘、歌春が筑前屋の弟万次郎と恋仲になっていたけれど、職人の男との縁談が持ち上がり歌春は職人の和吉に嫁ぐことになる。しかしそれが悲劇のはじまりだった。歌春は万次郎のことを結局忘れられず、その不義が和吉に知られ、歌春は姿を消してしまう。そのために万次郎が祭りかなにかで舞うはずだった能のシテを代わりに信助が舞うことになる。そしてその披露の日、シテとして舞う信助のもとへ歌春と万次郎の不義に怒り心頭に発した和吉が詰めかけ、シテが万次郎だと勘違いしたまま毒の粉を投げつける。
能の面をつけて舞台で舞っていた信助は面のなかでちょうど穴があいている目の部分から粉をかぶり、目を潰されてしまう。つまり、この瞬間、信助は人違いにより盲目となったわけだ。その後、歌春は和吉に刺され、よたよたと能舞台のところへと歩いてくる。そして万次郎の腕のなかで息を引き取り、信助が目の包帯を巻いたまま再び現れる。しかし、盲目となった信助はようやくそのことで本当の母を得、恋焦がれた妻を得る。信助と初音、そして糸栄は三人からだをよせ合いながらその場を去っていく。行く先は真っ暗な闇だ。それでも三人三様ずっと求めていた存在を得て決して哀しいばかりの道行きではない。

そしてこのラスト、舞台を降りた段田さん、宮沢さん、そして猿之助さんが客席のあいだの通路を通って下手の真ん中の扉へとはけていくのだけれど、このときの猿之助さんのその表情が胸に迫って仕方なかった。なみだが止まらなくて、でも鳥肌が立つし、なんだかもう惹き付けられて本当にこの人はすごい。すごかった。
実はこのときアクシデントがあって通路を上がってくる途中、一番最後をしずしずと歩いていた猿之助さんの頭の上にずっと舞台だけで降っていると思っていた椿が客席の上からも降っていてちょうど猿之助さんの上にもぽとりと落ちて当たって下へと落ちていった。いつかそういう状況になるのではないかと思っていたのだけれど上手く位置を調整していたのか、それまでは一度も役者に当たらなかった椿が最後の最後で猿之助さんの頭上を狙って落ちてきて驚いたけれど、猿之助さんには何の表情の変化もなく、芝居を続けていた。
まあアクシデントは舞台を長くつづけている方にはそれに対処する方法も身についているだろうし、大したことではない。それよりもなによりも最後の表情だ。圧巻だった。本当にその空気がすごかった。

ということで市川猿之助さんだ。
出てきた瞬間の客席のヴォルテージがまず違った。猿之助さんと宮沢さんは歌っていなかったけれど、一緒に登場した瞽女さんたちと杏さんは歌っていてそれに乗せられて客席ものりのりだったというのもあるけれど、登場した瞬間の拍手は確実に猿之助さんが一番大きかった。そして拍手したい気持ちもよく解った。猿之助さんたちのようなちゃんとした歌舞伎役者さんがやる歌舞伎は劇場ではまだ見たことがないので今度はちゃんとした歌舞伎のほうも見に行きたい。きっと観客へのサービスみたいなものがきちんと根付いているんだろうな。
それはともかく、猿之助さんとてもきれいだった。あだっぽい艶やかさがすでに年増の役だけれどちゃんとあって、それにそれだけではなくて盲目という頼りなさや儚さ、静々とした女性らしさも本当にたしかに女性で、女形ということを理解はしているけれどなんだか次元が違った。
以前、蜷川さんのオールメールでは一番多く女性役をしているらしい月川悠貴さんがヴェローナの二紳士のアフタートークで女性になろうとせず、娘役という性別になるというようなことをおっしゃっていたのだけれど、それ以上に次元が違うと思った。
この話が葛の葉子別れを題材としているからでもあるかもしれない。葛の葉はただの女性ではない。お狐様が化けて女性になっている。この話は瞽女の糸栄が本当にお狐様が化けた姿、とは違うだろう。それでも瞽女という差別的な気持ちもどこかに込められているのかもしれないが、得体が知れないような人とは違う存在というイメージが化け狐と重なって人外の存在という雰囲気をどうしても与える。そこに猿之助さんの存在感がうまくあいまった。
座敷で一人舞台の前面でお三味線を弾きながら歌うシーンがあるのだが、そのとき軽くお三味線を流すようになんだかあだな感じで抱えて少し斜めに構えて弾いていてその姿がとても艶っぽくて美しかった。歌も物語のなかでとても重要なもので胸に迫った。あ、やばい、この人本物だ。それが正直な気持ちだ。この存在感はやはり歌舞伎という歴史に、そのなかでこの人がどれだけの努力を重ねて来たかということに裏打ちされていると思った。いや、そんな努力などという簡単な言葉では済ませられないだろう。それでもほかに私は言葉を知らない。ただ、すごかった。この人は本物だ。観劇前に読んだシアターガイド2月号の元禄港歌のインタビューのなかで猿之助さんは演出の蜷川さんに対して、蜷川さんは色んな芝居を用意してこれは?これは?と選択肢を見せることが一緒にやる上で重要というようなことを話していてああ、余裕だなと思ったのだけれど、そのくらいの余裕は持ち合わせていて当然だった。すごいひとだった。

では、気になったことを少しだけ。
元禄港歌では上記もしたが能舞台のシーンがある。舞台は屋根付きできちんと設置されている(ように見えた)それはともかく、演目は帰りの電車のなかでパンフレットを開いて初めて『百万』というものだと知ったのだけれど、シテは増女的な女面をつけていて笹の葉を持っていた。それを見た瞬間に、笹か、隅田川みたいだな、と私は思った。隅田川は子どもがさらわれる女性の話で、葛の葉子別れに少しばかり通じる能の演目だ。百万という演目は見たことがなく、今回初めて知ったのだけれど調べてみると隅田川とも葛の葉とも通じる狂女の話だった。祭りで我が子を見失った母親が気が狂い、見せ物とされているところに奈良で子どもを拾った男が現れ、それがその狂女百万の息子だと解って母子が再会するというような筋だ。その狂女百万が息子を探して狂い歌い舞うシテを舞台では段田さん演じる信助が舞う。信助にすれば自分の立場は本当は狂った母親ではなく、行方不明になった息子のほうだ。そういう自分たちに共通する入れ子式の舞台ということになる。このシーン、能シーンも吹き替えではなく段田さんが演じていた。お装束を身につけるとかなりがたいがよくなるというか着膨れするので立ち姿だけでは面もつけているため最初、本当に段田さんが演じているのか解らない。しかし、謡いが始まると声で解る。たしかに段田さんだった。けれどこういっては失礼かもしれないけれど、その謡いがちょっと微妙かな、と思ってしまった。申し訳ない。たとえプロの役者さんでも能役者でなない段田さんに求めるレベルが高すぎたのかもしれない。私も決して多くのお能を見ているわけではない。年に一、二度舞台に足を運んでいるだけだ。それでも、いや、ん?ちょっとあれかな、と思ってしまったのは事実だった。こういう伝統芸能を芝居の一シーンに取り込むのはかなり難しいことなのだろう。まあ一瞬なのでさほど気になるほどではないけれど気になったので少しだけ。

作品としては本当に美しかった。椿が首を落とすその演出は秀逸で本当に美しかった。
そして、観劇後に私より先に観劇された方と少し話をして思ったのだが、この話は最後、本当に糸栄と初音、信助はこのあとちゃんと生きていけるのかそれすらも不安に思わせるような寂しく哀しく、暗い道行きだけを見せて終わる。切ない話だ。それでも、信助や初音、糸栄にとってはある意味しあわせな道行きであったのかもしれない。そういうふうに思わせた。哀しい話だ。人も死ぬ。朗らかに華やかに可愛く笑って歌っていた歌春が無惨な死を遂げる。盲目となった信助は家を捨て、本当の母とほれた女、初音とともに町を去る。その行く先は闇だ。それでもやはりある意味ではしあわせな道行きだと思った。道行き、という言葉はその先に死がある。生きるための道行きとは普通使わないものだという。そして三人が去っていくその様はまさしく、道行きだった。けれど、哀しさよりもしあわせをそこに見いだしてしまうその感覚が、この作品を演出した蜷川さんの優しいまなざしに裏打ちされているのではないかと感じた。蜷川さんの優しさが、この物語で生きた者たちの生き様すべてに注がれている。そんな気がした。蜷川さんは厳しい演出家だということをよくいわれる。その厳しさの奥にある優しさが、慈愛に満ちた気持ちが、この哀しい話を儚く美しくそして哀しいのにしあわせを感じさせる終わりになっていたのかもしれない。そんなふうに思った。そう記してこの雑レポをしめようと思う。

とてもおもしろかった。そして哀しかった。本当に見られてよかった。
来年、今度は同じく秋元松代さん脚本による近松心中物語が上演されるという。今回の元禄港歌を含めた三部作のなかの一作だ。そちらも必ず観に行きたい。本当に素敵な舞台だった。