ことはみんぐ

演劇、美術、ミステリ、漫画、BL。趣味の雑感。

彩の国シェイクスピアシリーズ第32弾 尺には尺を①

公演概要

演出:蜷川幸雄

作:ウィリアム・シェイクスピア

訳:松岡和子

出演:藤木直人多部未華子辻萬長

彩の国シェイクスピア・シリーズ第32弾 『尺には尺を』|彩の国さいたま芸術劇場

 

観劇公演

2016年5月28日マチネ

さいたま芸術劇場

 

 注意

  • 何の気遣いもなくネタばれしています。

 

尺には尺を

まず、オープニングが少し変わっていた。
まだ客席も揃わない、開演までそれなりに時間のあるうちからステージにはキャストがみんな出てきていた。普通に舞台上を動き回りながら、発声練習的に声を出してみたり、イメージトレーニングをするように手振りをしてみたり、それぞれに芝居とは関係ない雑談をしていたり。
以前、ジュリアス・シーザーのオープニングでもにたような試みがされていた。シーザーのときは、ローマ帝国の時代とは違う、もっと新しい時代のヨーロッパの街をイメージさせる群衆が芝居の始まるかなり前から舞台の上にいて、それぞれに雑談したりうろうろしたりしているというものだ。シーザーのほうは間もなく開演ですというような場内アナウンスが入った頃、主要キャストも姿を現してやはりそれぞれに雑談したりしていた。そして、舞台が始まる瞬間個人的にとてもかっこいいなと思う演出が入って時代がローマに遡るのだけれどそれはまあネタばれになるので割愛する。DVD出ているのでぜひそちらでご確認を。かくいう私も生では観劇していないのでDVDで見ました。冒頭、めっちゃかっこいい。

それはともかく、シーザーの方は、舞台上にいる群衆はキャスト自身ではなく、演者に与えられたローマ時代とはまた違う時代のある人物という役を演じていた。同じく、蜷川さんの演出のネクストシアターによる蒼白の少年少女たちによるハムレットのときもシーザーと同じように物語の時代とは違う時代の人々が最初に舞台に現れて雑談するような様子からお芝居ははじまり、全員が整列して一礼すると同時に物語は戯曲の時代へと遡ったのだが、このときもシーザーと同じようにやはり演者には演者自身とは違うある時代のある人物という役が与えられていた。こういう始まりはとても面白い。そう思った。今回もそういうオープニングだった。

 

しかし、違うところがある。今回は舞台の上に舞台裏が現れていた。演者たちはなにかの役を与えられているというよりはむしろ、演者本人がそこにいるようだった。印象としてはシーザーのときの演出のようだと思った。けれど、かなり決定的に違う演出だ。役者が芝居の前のひとときをちらっと見せているくらいならば、これからシェイクスピアの劇を演じる役者たちという役を与えられていると見ることも出来ただろう。最初のうちはそういうものかな、と思っていた。けれど、途中から舞台上にハンガーラックが登場した。それは小道具としてはいささか異質だ。普通の現代においてどこにでもあるハンガーラックだ。そこには男性キャストの重厚な上着がかけられていた。ラックが現れるとさすがにそろそろ開演時間のようでタイミングは記憶にないが場内アナウンスも入ったはずだ。役者たちはそれぞれに自分の衣装を手に取り、はおった。それで準備万端。ラックはだれかが舞台袖に持っていったのだろう、いつの間にか消えていた。そして鐘の音とともに舞台上の役者たちが舞台の前方で整列し、主演の藤木直人さんの動きに合わせて一礼し、ばっと翻って舞台の奥へと一斉に早足ではけていった。

面白い。面白くないわけではない。ただ、ハンガーラックが出てきたことが私には少し違和感だった。回りくどく上記したが「これからシェイクスピア劇を演じる役者たちが舞台上でウォーミングアップをしている」というお芝居が開演前からすでに始まっているというのならば本当に大歓迎だった。開演前から予定時間以上に長く彼らのお芝居が見られるのだから願ったり叶ったりだ。すごく嬉しくてたのしい演出だと思う。でも、ピカピカ光るハンガーラックが出てきたことで「シェイクスピア劇を演じる役者たち」ではなく、私たちが見知ったきちんと名前や顔を知っている特定の役者さんたちが舞台の上に本物の舞台裏、楽屋の中を持ってきてしまった感じがしてしまった。それは少し違和感だった。もちろん、海辺のカフカのときに藤木さんを拝見し、抑えた演技が素敵だと思ったし、かっこいいと思ったので再び舞台を見られることは楽しみだったし、ネクストシアターの役者さん方や蜷川演劇常連さんもたくさん出演されていてあれが誰々さん、あれが何々さんとウォームアップされる姿を目で追いかけたりもした。ただ今回、この作品を私が見たいと思った第一の理由はキャストの方がたではなく、蜷川さんのシェイクスピア劇だったからでキャストが他の方でも見に行く気持ちとは関係がなかったので役者さんがたの素の部分的なものを見られた喜びみたいなものはちょっと弱かったというのもあり、ハンガーラックが連れてきたなんだか本物の舞台裏感がちょっと気になった。
お芝居としての舞台裏なら蜷川さんも演出のなかに組み込むことはありえたと思う、でもお芝居ではない舞台裏をハンガーラックのあまりに現代的なピカピカ感が象徴したように私には見えてしまったのでハンガーラックがあの時間をお芝居とは違うものにしたような気がした。まあもちろん勝手な感想でそれはそれで良かった!という人も多いだろうし、開演前から見るのは楽しいよ!と私もこれから見る方には伝えるけれど。

が、しかし、それはまあほんの束の間のことだ。
すでに準備万端整ってハンガーラックも姿を消したあと舞台の前面に整列し、一礼した役者たちが舞台の奥へと早足ではけていくとすぐにお芝居が始まるわくわく感に気持ちは持っていかれ、はけていく役者のなかのある一団が奥行きの広い舞台の奥側、全体で三分の二ほど進んだあたりで急に踵を返して優雅にくるりとまたたくさんのライトが当たる基本的な舞台のほうへと歩いてくるときにはもうきらびやかな王侯貴族の堂々たる足の運びに目を奪われた。というか、このときは、三角陣形の頂点を歩いてきた公爵役の辻さんがめっちゃかっこよかった。このときは…。
シェイクスピアのお芝居を見る前にはいつもならば上演台本と同じ訳者による戯曲を前もって予習のために読んでいくのだが、今回は主に気持ち的な事情があって、尺には尺をが次の彩の国シェイクスピアシリーズだと決まったあと、まだ上演台本を手がけた松岡和子先生の訳書が発行される前に読んだ小田島版しか全編は頭に入っていなかった。松岡版も三分の一くらいは読んだのだが、全部は結局よめないまま観劇に臨むことになった。小田島版での印象では公爵は私のなかではちょっと問題ありな人物として認識されていた。かなり独りよがりな感拭えないと思ってしまったからだ。けれど松岡版ではその独りよがりなところに理由が見えるような描き方がされていて印象は小田島版と松岡版でかなり違うように思った。
冒頭のシーン、旅に出ると言って街をアンジェロに任せて姿を隠す公爵だが、小田島版ではひっそり戻って修道士の姿でアンジェロがどう振る舞うのか見てみようというところもいささか下司な感じに捉えたのだが、松岡版では話がどう転がっていくのか解っていたからでもあるかもしれないが、ただ単に権力を与えられた者が、品行方正な顔をそのまま保つことが可能かを見てみようといういやらしい趣味を満喫する公爵ではなく、アンジェロの本当の姿を知っているからこそ一時的に権力を与えることでアンジェロの本性を暴こう、その理性を試してみようという心づもりが有るのかもしれないと思わせた。
アンジェロは過去にあとで登場する女性との婚約を、女性の悪い噂を流して破棄した、という事実がある。当時、その女性は兄が航海中に事故でなくなり、持参金がゼロになったという事情があり、どうやらこの話の時代、持参金を持って来ない女性との縁組みは地位の高い人物にとっては全くありえないような話で、持参金がなくなったのならば婚約破棄は当然という考え方があったらしい。それは観劇後にパンフを読まれた方からお聞きしたのだが、戯曲を読んだ(この辺りはまだ松岡版も読んでいた)限りではそういう習慣が頭に入っていなかったというのもあるが、もしかすれば多少のこじつけ感もあるかもしれないけれど、本当は持参金の紛失が理由だったのに淫らな女性だという噂を流してそれを理由として婚約を破棄した(そのせいで婚約破棄という痛手だけでなく、淫らな女性だというマイナスイメージまでその女性に与えることになった)ことが当時の習慣として割り切れず許せなかったためにアンジェロを引っ掛けようとしたとも取れないことはないように思う。小田島版ではそういうひどい仕打ちを受けた女性への憐憫みたいなものを公爵に感じることがなかったので松岡版のほうが公爵のキャラクターをもう少しすんなり受け入れられたような気がする。
しかし、アンジェロの元婚約者に同情する優しい公爵様という一面はたしかにあるのだろうが、やっぱりこの公爵、独りよがりというほどではないのかもしれないが、少し、残念なところがあるのはたしかだ。アンジェロの元婚約者、アリアナのためだけに動いていればよかった。アリアナのために動いて結果、アンジェロが懸想する今回のお芝居のヒロイン、多部未華子さん演じるイザベラやその兄のこともすくうのならばこの公爵様に疑問符が付くことはなくすんなり勧善懲悪的な喜劇として受け入れることが出来ただろう。でも、やっぱりこの公爵様、登場のシーンは堂々としていて臣下を引き連れてくる様はとてもかっこ良かったが、なんだかんだで結構な色ぼけおやじである。芝居のなかにルーチオという狂言回しの役割を負う人物がいる。このルーチオ、口から生まれたようにあることないことよくしゃべるのだが、修道士に化けた公爵を前にしてその公爵様の悪口も面白おかしくまくしたてる。女性にはかなり手が早いというようなことがそのなかにあり、修道士の姿の公爵は自分はそんな人間ではないと自負しているため取り合わなかったり、あとで公爵にそれが知れたときにどうなるか覚えておけというようなことにおわせたりするのだが、一気に話が飛んでしまうが、ラスト、修道士に姿をやつしていた公爵が実は公爵本人でした!とネタばらししたところでアンジェロが懸想し、貞操を狙われることになってしまったイザベラにいきなりせりふとしてはかなり強引なプロポーズをすることで、おい、まて公爵!となる。ルーチオがまくしたてていた公爵像はルーチオの暴言でしかないはずなのだが、案外それが事実を言い当てていて、ルーチオは公爵を侮辱した罪で縛り首、、、には結局ならずにすむけれど、百叩きの刑には遭いそうな状況で話が終わるため、ルーチオ自身は決してそうは見えないけれど、正直者が馬鹿を見るという皮肉がうっすら見て取れるようで、裏があり、悲哀を感じる喜劇らしい喜劇だと思った。
アンジェロも、この時代持参金を失ったことが婚約破棄の正当な理由になるということを踏まえると実際やっていることはやはりひどいけれどそれでも同情の余地がどこかにはありそうで、マリアナにはひどいことをしているのはたしかでも、イザベラに出会う前はたしかに品行方正で厳しい人だったろうからイザベラに出会うことまで公爵が仕組んだわけではないけれど、出会ってしまって道を踏み外したアンジェロを密かに諭すのではなく、公の場でその罪を暴くようなやり方で暴露することもかなりやり方としては酷だ。この話、なんだかんだで公爵のちょっと公爵さんやっぱり独りよがりかもで笑いを誘う話かもしれない。
いや、それでも戯曲だけでは笑いに持っていくことは、実はまだ最後まで松岡版は読んでいないのだけれど、それでもおそらくは難しいだろう。
お芝居だからこそ、喜劇として成立している。そう思う。
戯曲のなかにある笑えないもやもや感を演劇マジックが笑ってもいい楽しさに変える。
今回の芝居ではさっきから公爵公爵とうるさかったと思うが、その公爵様がやはりすべての元凶といえなくもない。いや、違う、最後にもやもやをいくらか晴れやかな笑いにすり替えて見せてくれる立役者が公爵様だ。最後、公爵がイザベラに自分の妻になれ、とプロポーズするシーン、ここを権力者然と高飛車に命令するような芝居で演じては喜劇が喜劇にはならない。今作の公爵様は茶目っ気たっぷりな豊かな表情でここでプロポーズをしたならば、それはだめでしょ??と突っ込みが入ることを解った上で楽しげに演じていた。それでも本当のラストシーン、すでに戯曲のせりふはすべて終わり、せりふのないお芝居となった幕引きの場面、修道女見習いの福を脱ぎ捨てて白い服をまとったイサベラがひとり現れ、青空のもと、鳩を放つ演出で話は終わる。このシーン、イサベラの衣装が白だったこと、それまで着ていた修道女見習いの服ではなくなっていたことを加味して私は戯曲に引きずられるまま結局、イザベラは公爵と結婚することになったのかと思ったのだが、どうやらそうとは限らないようだ。自分の感じた感想をありのままにのこしたくてあまりほかの情報をいれないようにしていたため、まだパンフも読んでいないのだが、どうやらパンフにはその本当のラストシーンも観客の好きなように取れるようにしてあるということのようだ。つまり、イサベラが天に放つ鳩に象徴されるように、決して公爵との結婚も強制されず、自由に羽ばたくことを許されたというふうにとることも可能だということだ。それは一緒に観劇した方の話を聴いて目からうろこだった。私が観劇したのはまだ公演が始まった最初の週で、四日目の公演だった。初日より、公爵の最後のシーンがよりコミカルで面白みを増していたというようなことも聴いたのでその公爵のお芝居次第でラストのイサベラがどういう状況に身を置いているかということ見え方は変わっていっているのかもしれない。東京の公演はもう6月11日で閉幕となったが、もう一度、大阪にも観劇に行くのでその部分はどうなっているのか楽しみにしている。

 

さて、戯曲についてが長くなったが、もう少し、細かいお芝居や演出についても記しておきたい。
まずは、多部未華子さん演じるイザベラだ。
多部さんの生のお芝居は今回初めて見させて頂いたのだが、まず声がとても魅力的だった。とてもきれいに響いていただけでなくとてもよく聞き取れ、声のお芝居においては完璧だった。もちろん、声以外のお芝居が完璧ではないというわけでもない。それは完璧かどうかは私には判断できないけれど、とてもテンポも良かったし、せりふも滑らかだったし、この人はとても上手い人だった。そして上手いと感じるからではなくやっぱりとても魅力的だった。イザベラは修道女見習いという役柄、控えめな雰囲気を出してきたりするのだが、案外、現金というかなんというか自分の身に危険が及ぶとなればすぐに手のひらを返して兄のいのちも惜しくない!!というような身の振り方をする変わり身の早さというコミカルな部分があり、早口でまくしたてたり、いきなり命令口調になったり、貞操の危機は修道女見習いとしても、一人の女としても(自分じゃない人のいのちも含む)いのちよりもやはり大問題で神に仕えることをのぞみ、自分よりもだれかほかのひとのために身を犠牲にする精神みたいなものを十分に持っていそうなのに貞操の危機には過剰に反応する。もちろん人間なので当然だけれど物語としてはやはり少し矛盾を抱えている、と思えなくもない。
と、書いていてとても今更感満載ではあるが思ったのは、この話、登場人物がそれぞれに矛盾というか、表と裏で違う自分を抱えているところを風刺する内容になっているのだろう。やはり正直者が馬鹿を見る的な流れなのかもしれない。いや、アンジェロもルーチオも完全なる正直者と評することも出来ないのでそういうことでもないだろうか。それでも矛盾と皮肉な物語だ。

 

それはともかく、続いて、面白いと感じた配役につていて。
この話には修道士と修道女、神に仕えるひとたちとその対極にいるような売春宿の女将や娼婦、罪を犯した囚人たちという登場人物がいる。その名前のない多くの修道士、修道女、娼婦、囚人を同じ役者がいくつも役を掛け持ちして全く違う矛盾する役をこなしていた。そのなかで売春宿の女将オーヴァダンを演じた立石涼子さんが次のシーンでは修道院に入ろうとするイザベラの指導役のような修道女を演じていたことが一番目に見えて解り易かったのだが、この正反対な立場の役を同じ役者が演じるというところがとても面白かった。売春宿の女将オーヴァダンと貞淑な修道女が本当に違う人物のようで、それでもやはり同じ方が演じていて役者としての切り替えも面白く素晴らしかったが、それよりもやはりこの二役を同一人物に演じさせるという演出が面白かった。うまく物語の矛盾をその配役で現していた。

 

そして個人的に蜷川マクベスで一の魔女を演じていた清家栄一さんがやはりとても素晴らしかった。この方のマクベスの魔女役は本当に素晴らしくてすごく上手で大好きになったのだが、今回も観劇前には出演者を詳しく把握していなかったにも関わらず、開演前の舞台上でのウォーミングアップの際にお姿を拝見し、出演されているのだと知り、とても楽しみになった。
役としてきちんと把握できたのはたしかせりふはなかったがとってもエロティックだった娼婦と囚人の一人、バーナディンだったけれど、どちらもとても良かった。とくにバーナディンのほうはやさぐれ感とまだ準備ができてないから死刑にはならない!と普通ならば自分の意志で決められるようなことでもないのに言い放って笑いを誘うところやその風貌も良かった。バーナディンの役は磔刑のキリストを彷彿とさせるような半裸でお腹のお肉はちょっとたるんでいる感じも役のやさぐれ感と相まって似合っていたし、なかなかの凶悪犯振りで迫力があってやっぱりこの方は上手いな!と見ていて嬉しくなった。この人、とても好きです。

 

それから、ネクストシアターの方も多く出演されていた。
おそらく私が見た蜷川さんのお芝居でネクストのなかでは一番多くお目にかかっているのが内田健司さんだが、彼のがりがりのからだがやっぱり今回も目をひいた。男といちゃいちゃしている娼婦のときも、顔は出ていない修道士のときもその体のラインから後ろから二番目だなと確信できるくらいに認識できた。また、今回はフロスというばかな紳士の役も演じていてそれはかなりコミカルで面白く、一回引っ込んだのにまた戻ってきたり、ちょっとふわっとしていてなんとなく現実感がない人物像がある意味内田健司くん本人が見せる一面を現しているような感じもあって面白かった。でも内田健司さんが演じた役で特に目をひいたのはやはり囚人の役だった。がりがりのからだでシャドウボクシングをしていてせりふもほぼない。しかし、あの肉体とあのやさぐれた雰囲気の人を寄せ付けない感じが似合っていた。ばかみたくにこにこしているだけのフロスとの対比としても鮮やかでよかった。
ジュリエット役の方、この方は幕間のときに一緒に観劇した方とリチャード二世のときのイザベラだよね?という話をしていたのだけれど、どうやらそれは勘違いでおそらくジュリアス・シーザーのときにシーザーの妻を演じていた方だ。シーザーのとき、その声の凛とした響きにとても素敵だと思ったのだが、今回もやはり張りのある声がよかった。

 

あと名前のある役ではなかったけれど、再演のリチャード二世を見た際に注目して!と言われて顔とお名前が一致するようになった鈴木彰紀さんも出てくるたびにあ、鈴木くん!と個人的に反応して思わず目で追っていた。この方のリチャード二世での代役だったモーブレーとても良かったです。
役者の皆さんはこれまでに名前を挙げなかったどの方もとても良かったです。しゃべり倒す道化役のルーチオもお疲れ気味なエスカラスも、石井さん演じるやっぱりよくしゃべるちょっと下品なポンペイも、もちろん、主演のアンジェロ、藤木直人さんも、他の皆さんも。

 

そして演出的なことも少し。
途中、スローモーションを取り入れるシーンがあった。
特に強く印象つける必要性がある雰囲気のシーンではない。たしか、裁判のようなシーンだった。大きな机に書記官が居眠りしながら座っていて突然、スローモーションが始まる。しかもテープを遅回しにしたときのように声も低くしながらゆっくりになるせりふまでつけて。ここは、確実に蜷川さんへのオマージュという意味合いがあったと思う。そのシーンを見て、これはたしかに蜷川さん演出の舞台ではあるのだろうが、蜷川さん不在の稽古場で蜷川さんならどう作るだろうかとカンパニーや出演者の皆さんが一緒になって考えて作り上げた作品でもあると強く感じた。けれど、きちんと笑いを誘う要素としてスローモーションが入っているので切ない気持ちにさせられながらもちゃんと笑ってみられて振り返ったときには思わずなみだが込み上げてきたが悪くないシーンだった。蜷川さんは病床から映像を見ながら演出されていたと聴いた。このシーンを蜷川さんもベッドの上で見たのだろうか。笑ってオーケーをだしたのだろうか。考えても知ることはないだろう。ちょっと切なくて少しだけ未来に希望を抱かせるシーンだった。

 

とりあえず、全体としてはこんな感じだろうか。
最後にどうしても記しておきたいことがある。
カーテンコールのようすだ。
多少のひっかかりをのこしながらも晴れやかな青空のもと、平和やおそらくは自由の象徴である白い鳩を飛ばすイザベラというシーンで終わった芝居だ。カーテンコールで再び観客の前に現れた役者陣にきっといつものお芝居ならば笑顔やほっとしたような安堵の表情、緊張から解放された束の間の柔らかな表情があるだろう。けれど私が観劇した5/28のマチネでは、カーテンコールに現れた役者陣の表情はとても神妙で笑顔と表現するのはいささか難しいものがあった。
主演の藤木さんが最初のカーテンコールに現れた際、二階席かそれよりも上を見上げられた。二階席の方を見上げられたのかそれよりも上の方を見られたのか実際には判断できなかったのだが、もっとずっと上、ホールの天井よりもずっと上を見上げられたのではないかと勝手に思いを馳せた。神妙な面持ちで上方を見つめ、きっと蜷川さんを思っていたのだと感じた。
喜劇のカーテンコールだ。こんなときでも笑顔があったとしても決して間違いでも悪いわけでもない。初日には、無事幕が開いた安堵や感動からではないであろうなみだがあったと聴いた。四日目にはなみだこそなかったがやはり笑顔があったとは言いがたかった。お芝居には笑顔がたくさん溢れていたのに、カーテンコールには笑顔がなく、こんなところまで対比を感じさせるのもまるで蜷川さんの演出のようだった。一度目のカーテンコールで幕が下り、再び幕が上がったとき、そこにはイザベラが鳩を解き放った青空を背景に蜷川さんの大きな遺影が掲げられていた。初日を観劇された方々の話で二度目のカーテンコールのことは知っていた。だからこそ身構えてもいた。それでもお芝居はとても楽しかったし、面白かったけれど、なみだを堪えることはできなかった。こうして観劇レポを書いている今もなみだのために視界は滲み、ぽたぽたと落ちるしずくにめそめそしたくないと自戒を思っている。6/11、さい芸での千秋楽を迎えた。その様子を伝える話にはまだあえて触れていない。どうだったのだろうか。カーテンコールに少しは笑顔が戻っただろうか。このお芝居が本当の終わりを迎える大阪での千秋楽までには少しでも出演者の皆さんに笑顔が戻ることを祈りたい。だって、喜劇だ。笑って終わってほしい。どんな気持ちがその胸を張り裂けそうにしていたとしても、たとえそれがお芝居だったとしても、なみだを湛えていてもいい、笑って終わる喜劇だったらいい。そんなふうに私は思った。
そして唯一、出演者のなかで最後までおどけたように狂言回しの役割を負って下りてくる幕に合わせて腰を屈め、幕から顔や手をのぞかせて手を振って客席の拍手に応えていたポンペイ役の石井愃一さんのそのサービス精神も素敵だったこと、最後まで笑わせてくれようとしてたそのお気持ちにも一観客として感謝したことも書き添えておきたい。

皮肉の利いたとても面白いお芝居だった。
まだもう一度見られることをとてもありがたく思っている。
そして、蜷川さんが始められたこの彩の国シェイクスピアシリーズはまだあと5作をのこしている。どういう形になるかはさだかではないということだけれど、続けたいと製作側の方がネットで発信されていた。あと5作、どういうものになるにせよ、必ず見に行きたい。


追記
そういえば舞台装置について触れなかったので追記する。
ギリシャ彫刻風の大きな人物が七体描かれた可動式の三枚のプレートが正面と左右に立っているというものだった。それぞれに人が通れるほどの四角い扉があり、時折そこがぽっかりと開くようにできている。彫刻風の人物、七体という数と胸元をはだけたような女性像があったことから七つの大罪?と思ったけれど罪というよりその罪に対する報い、地獄に落ちたのちの責め苦的な雰囲気もあり、実際はどういうモチーフなのか判然としなかった。実際のところはどういうものなのだろうか。そろそろパンフレットを読んで自分の憶測だけでなく考えなければと思う。