ことはみんぐ

演劇、美術、ミステリ、漫画、BL。趣味の雑感。

るつぼ 雑感

公演概要

演出:ジョナサン・マンビィ

作:アーサー・ミラー

出演:堤真一松雪泰子黒木華溝端淳平岸井ゆきの、他

 

www.bunkamura.co.jp

 

観劇公演

2016年10月15日 マチネ

シアターコクーン

 

注意

  • 何の気遣いもなくネタばれしています。

 

 

るつぼ

 

始まりは異国の歌だった。炎と歌と少女たちの踊りだ。

輪を作って踊る少女たち。その真ん中で解らない言葉で呟くように唄うひとりだけ黒い肌をした少女。

一瞬で世界が中世のアメリカですらなく空想の異国へと連れて行かれた。

今回のるつぼは海外物で文化的な背景にも馴染みがないこともあり、予習も兼ねて戯曲を読んでから観劇した。

戯曲を読んでいたので話の内容や流れは解っていた。

けれど、オープニングの踊りが、そう、ダンスではなく、踊りが始まったとき、戯曲が消えたと思った。この物語を私は知らない。そう、思った。

いや、まあ、それもそのはずだ。時系列で考えれば少女たちが踊るシーンは芝居の冒頭にくる。しかし、戯曲の始まりは少女たちが踊るシーンではなくその翌日で、少女たちが踊っていたという部分は翌日以降の会話のなかに出てくるに過ぎなかったからだ。しかし、会話のなかで表現される踊りの場面を冒頭で音と身体とライトの光で強く表現されることでこの世界へすうっと惹き込まれた。

妖しげな踊りと歌は、背徳からくる恍惚と年相応の悪ふざけとやはり年相応にませた気持ちとそれでいてどこか醒めたようにも見える少女たちの無表情に彩られて観客を数百年昔の異国の地へと招待した。

そして妖しく艶かしくもある少女たちの踊りが神に仕える聖職者の咎めるひと言で終わりを告げる。

見られてはならない姿を見られた少女たちはパニックに陥り叫びながら三々五々散らばっていく。観客は単純にその悲鳴に心臓を叩かれる。冷水を浴びせられたように少女たちに呑まれた気持ちが少し冷静になった。

 

そして直後の場転がとても面白かった。

パニックを起こした少女たちは一旦は逃げ惑う。けれど、パニックにより失神した一人の少女(踊る少女たちに咎める声をかけた牧師パリスの娘、ベティ)を運ぶために戻ってきて教会に連れてきたという流れをそのまま踊っていた森の風景から牧師の家の一室へ場面を入れ替えるために必要なベッドや机、椅子といった小道具を運び入れる動きを兼ねていたからだ。

厳密にいえば上記したように戯曲にあるシーンではない。なので少女たちは家具を舞台に運び入れながらこれはあっち、そっち!と口々にどこか切羽詰まったように口にするせりふも戯曲にはない。けれど、意識を失った少女を自宅へ運び込むというシチュエーションを利用して場転に変えるその発想と少女たちが慌てふためくようでいて部屋が次々に整えられていくようすがとても面白く印象的だった。

 

また、室内用の舞台装置も面白かった。多少、大きく実物大のドールハウスといった具合の箱だ。

舞台の左右から壁が現れ、客席側だけを空けて舞台上に部屋が出来上がる。天井には四角い枠が上方から下りてきて壁の上に被さるが、下りてくるのは枠だけなので天井には大きな天窓が空いているようなかたちで狭苦しい感覚はない。

最初に教会の母屋のシーンに変わったとき、いつの間に天井が下りてきたのか気づかなかったので急に天井が出来ていて驚いた。

 

そして舞台をみる前に予習と思って戯曲を読んでいったのだけれど、この戯曲、割と作者によるト書きというか、演技の指示が多い。いくつかのシーンでその指示がかなり忠実に表現されていることに気づいた。おそらくは戯曲には忠実に芝居が作られているのだと思う。演出家が作家への敬意を大切にしている証なのだろう。ことあるごとに思い出す、蜷川幸雄さんの作家が血を吐くような思いで書いたせりふを変えることは冒涜だというような言葉をその指示が忠実に守られていることに気づいたときにも思い出した。指示であってせりふではないのだが、今回の演出を務められたジョナサン・マンビィ氏も同様の思想をお持ちなのかもしれないと思った。

 

 

物語はいわゆる魔女狩り、魔女裁判の話だ。

けれど私には、いじめが成立していく過程を見せられているようだった。

つまり、かなり、怖い。

牧師が出てきてエクソシストのように少女に取り憑いた悪魔を追い払うというようなシーンもあり、空を飛んだ、正体を失くして暴れ回り、体が浮き上がってというようなせりふが出てきたりもするがそういうお化けの話で怖いわけではない。

ぎりぎりと精神的に追い詰められていく恐ろしさだ。

逃げたいのに逃げられない。叫んでも泣いてもなにしても逃れられず、この状況を変えることが出来る人は目の前にいるのにその人は自分とは全く物事を見ている角度が違い、自分が見ているものと同じものを見てもらうことが出来ない。もし自分が見ているものと同じものを見てもらうことが出来ればすべては覆り、正しい世界を取り戻すことが出来、自分が断罪されることも弾劾されることもなくなることは解っている。しかし、なにをどう説明しても言葉を尽くしてもどうやっても見てほしいものとは違う方角で物事を見て判断され、自分のことは信じてもらえず逃げ場を失って追い詰められていく。

 

私が一番に気持ちをよせ、自分を重ねて見ることになったのは、メアリー・ウォレンという少女だった。

メアリー・ウォレンは魔女として村の人々を次々に告発していた森で踊っていた少女たちの一人だった。けれど、魔女裁判を批判する急先鋒たるプロクターという農夫の家で働いているためざっくりいえばその影響から魔女裁判自体茶番だと告発する立場に転じる。

メアリー・ウォレンの気持ちのなかにあったのは魔女裁判でプロクターの妻、エリザベスが魔女裁判にかけられることへの怖れだったと思う。一番、身近な人間がいとも簡単に死刑を宣告される魔女裁判にかけられ、さらにエリザベスは決して魔女などではないが確実に死刑へと追い込まれることがメアリー・ウォレンには解っていたからだ。エリザベスのことを特別に親しく感じているということではない。もちろん、自分の働く家の女将で一緒に暮らし家族とは違うがそれなりの親しみはあっただろう。けれどその親しみはただ近くに暮らす人というだけだったはずだ。しかし、メアリー・ウォレンの心に怖れを抱かせたのは、エリザベスが潔白だとメアリー自身確信出来ていたからだ。

魔女裁判をある意味で主導している少女たちの主犯であるアビゲイルがなぜ町の人々を魔女だと、悪魔と契約した者たちだと告発するようなことになったのか。そのすべての発端がエリザベスだった。アビゲイルも以前プロクターの家で働いていてそのとき、プロクターとアビゲイルは男女の関係をもった。エリザベスはそれに気づき、アビゲイルを追い出したという過去があり、その三角関係が嵐を巻き起こした魔女裁判の発端となった。その一連の事情をメアリー・ウォレンは知っていた。だからこそ、エリザベスが潔白でアビゲイルが無実の罪でエリザベスを死刑にしようとしていると解っていた。メアリー・ウォレンが遊びのようにアビゲイルが主導する少女たちの残酷な群れから突如、はみ出してきたのはようやく自らの身をもって自分たちのしていることの恐ろしさに気づいたからだろう。

最初は遊びだったとメアリー・ウォレンは言った。遊びで罪もない人々を死刑へと突き落とすのだ。そしてその事実の重さに全く気づいていない。なんて鈍さだろう!そう、思った。

アビゲイルにはおそらく始めから悪意があった。最終的にエリザベスを葬り去る。それがアビゲイルの目的でそれまでについでのように次々と様々な人々を死刑に追い込んでいくことも最終目的が単なる個人的な怨恨でしかないと知られないためのカモフラージュだと半ば肚を決めていたはずだ。公明正大にエリザベスを裁き、死刑に追いやるためなら邪魔者はすべて殺してしまえと気持ちは固まっていただろう。いや、もちろんアビゲイルもまだ十代の少女でいくらエリザベスを殺してプロクターを手に入れるという切羽詰まった目的があったとしても心が揺れることはあったかもしれない。罪の意識なのか、走り出した自らをとめることが出来ない恐ろしさなのかはっきりとは解らないがときには不安定な心の揺れを意識させられた。しかし、走り出した車はすぐにはとめられない。流れにのってスピードは上がる。そのスピードに流されてどこかで罪の意識も自らへの怖れもなおざりに、むしろ本当に悪魔は見えているのだと自分を騙すように思い込んだところもあったかもしれない。アビゲイルだけでなく、彼女に迎合した他の少女たちがずっとアビゲイルに従ったのはそういう気持ちからだろう。今の人間がみればいわゆる集団ヒステリーのようなものだと解っても彼女にはそんなふうに考えることもできず、最初のうちのメアリー・ウォレンもそうだった。

 

それでもアビゲイルにはやはり悪意があり、流されるまま魔女裁判に関わっていたわけではない。彼女には目的があった。きちんと故意だった。

しかし、メアリー・ウォレンはそうではなかった。最初は彼女が言ったように遊びだったのだろう。人の生き死にが関わっているというのに遊びだと思えるその鈍さも含め、メアリー・ウォレンに自分を重ねた。いや、もちろん、だれかの命をかけて遊ぶようなことはしたことはないが、だれかを傷つけていることに気づかず気づいた瞬間氷水を浴びせられたようにからだが冷たくなり、頭が真っ白になり、恐ろしさに震えた経験はある。自分の鈍さをのろってどうすれば取り返しがつくのかを必死に考えるのだ。いや、私自身のことはどうでもいい。それよりメアリー・ウォレンだ。一旦、自らのしでかしたことに気づき、その恐怖に気づいたあとのメアリー・ウォレンは主犯のアビゲイルを恐れながらもプロクターに説得され、おもにエリザベスをすくうために今までの自分の振る舞いは芝居だったと魔女や悪魔と取引した人たちだとして町の人々を告発したことを嘘だと自分の立場を翻した。

しかしそれからがメアリー・ウォレンの受難だった。だれがどうみても立場を変えてからのメアリーは嘘をついていない。観客にはそれが解りきっていて嘘をついているのはアビゲイルだ。しかし、裁判を主導する立場にある裁判長らにはそれが伝わらない。

火を見るより明らかであるはずのことが見えていない人には決して理解されない。その苦しいジレンマのなかでメアリー・ウォレンはなぜ伝わらないのか、なぜ解ってもらえないのかと自分の言葉を信じてもらえないことに混乱し、本当に可哀そうだった。自分が正しいはずなのにどうやってもどう言っても信じてもらえない。この苦しさも私自身のなかに深く染み付いていた。そんなわけで私はメアリー・ウォレンに一番傾倒することになった。

伝えなければならない言葉なのにどれだけ言葉を尽くしても伝わらない。説得しなければならないのに言い聞かせる言葉は相手の心の上を素通りするだけで深くまでは浸透せず結局説得には至らない。どれだけ必死に繰り返しても聞いてはもらえない。基本的に言葉に頼って生きてきた身からすれば言葉はそれほど無力なのかとたまに思うことがある。そんなこれまでの経験を芝居のなかで見せつけられたような苦しさがこの話にはあった。

こんなことは茶番だ!みんなすべてを放り出して逃げ出せ!!!そう強く思った。それでもその土地で慎ましく生きることしかしらないひとたちは無実の罪を着せられても逃げることすら出来ないのだ。冒頭でまるでいじめが成立していく過程を見せられているようだと書いた。これが本当に現代の学校や会社や人々が集団で一日の主な時間を過ごす場所でのいじめというものだったとすれば見切りを付けてさっさと逃げろと思う。なにを言っても聞いてもらえない。自分を追い込むだけなら逃げ出してしまえば良い。それで本当にいい。

けれど、これは17世紀のアメリカで実際にあった魔女裁判というものをベースに描かれた話だった。おそらく、逃げるが勝ちでも逃げるという選択肢は選べない時代であり、世界だったのだ。

この話に出てくる人たちはピューリタン清教徒と呼ばれる人たちだ。世界史に出てくるビューリタン革命のピューリタンだ。プロテスタントのなかでも質素倹約というより清貧を尊び、品行方正で派手な振る舞いは決してせず、あくまで私個人のイメージでここまで言っては言いすぎなのかもしれないが歯を見せて笑うことすら罪になるそんなふうに生きていた人たちだ。

芝居の冒頭、娘たちが火を囲んで踊っていた。今の私たちからすれば踊ることのなにがいけないのか理解が出来ない。けれど踊ること、楽しむこと、そういうものすら堕落のもとだと教えられ、信じていたひとたちにすればまるで悪魔の所行だとその目に映っても不思議はない。

そんな簡単にいえば我慢強い人たちの話だ。打ち据えられても、悪魔と契約したのだろうとなじられてもそれを神の与えた試練だと思えば逃げ出すどころか神の御許へと殉じるものなのだろう。この話の町の人たちの多くは逃げるという選択肢をおそらくは知らない。だから苦しいジレンマに観客は耐えなければならない。本当に苦しい話だった。

逃げてしまえ!逃げることのなにが悪い!逃げてしまえば生きていけるじゃないか!止めることのできないアビゲイルを恐れながらずっとそう思って思い通りに行かない物語に苦しんだ。

そして私が心をよせたメアリー・ウォレンはジレンマに耐えられなくなって結局、翻した意見を再び翻すことになる。アビゲイルに迎合し、間違っていると思う気持ちを殺して自分の心を殺してアビゲイルが見えるという悪魔を再び見えると見えてもいないのに見えると言い、自分を守る。可哀そうなメアリー・ウォレン。彼女の心は再びアビゲイルに迎合した瞬間、死を迎えた。そう、見えた。

 

と、まあメアリー・ウォレンについて書いてきたが、この話はもちろんメアリーが主役ではない。

主演はプロクター役の堤真一さんだった。つまり、主役はプロクターだ。

しかし、この一本の戯曲のなかには複数の主となる話が混在し、主役も複数いると感じた。

基本的にはアビゲイルとプロクターの関係から紡がれる物語、プロクターとエリザベスの夫婦の話、メアリー・ウォレンの葛藤という三つの話が絡み合っている。

しかし、ある意味では登場人物の一人一人が主役のようでもあった。この話が実話をもとにしているというのが大きいのかもしれない。名前をもって登場する一人一人にきちんと人生という背景があり、それぞれが自分の人生では主役なのだということが見て取れた。

群像劇としてよく描かれ、そしてそれを演じる役者の演じる力も大きかったのだと思う。

主演の堤真一さんや毅然と振る舞うエリザベス役の松雪泰子さんが素晴らしいのはもとより、この存在がなければ物語が成り立たないアビゲイル役の黒木華さんがものすごく恐ろしく、本当に演者としてとてもとても素晴らしかった。

こういっては失礼かもしれないが、ふんわりとした美人さんではあるけれど際立って美しい方という印象はない。ご本人はとても可愛くてチャーミングという印象だが、お顔に関してはどちらかといえば地味なイメージがある。そんな彼女がスポットライトを浴びて婉然と微笑むさまは震え上がるほどに恐ろしく、それでいて痺れるほどに美しかった。この女優は化物だ…!そうに違いない!!そんなふうに興奮した。それだけ黒木さんのアビゲイルは素晴らしかった。

 

最後に今回この舞台『るつぼ』で一番心に響いたせりふに触れておきたい。私が『るつぼ』を観劇しようと思ったきっかけである溝端淳平くんが演じた悪魔払いというものに一家言あるヘイル牧師のせりふだった。

最初はこれまでに蓄えた悪魔というものへの知識を役立てようと意気揚々町へやってくる。しかし、町のなかで起こっていたことを俯瞰し、正直な目で見つめることですべてが茶番だと気づいてから彼にもメアリー・ウォレンと同じように苦悩が訪れる。そして戯曲のなかで一番に響いた言葉をヘイル牧師が告げた。

生が一番尊ばれるべきものだ、というようなせりふだった。

魔女裁判の嵐が吹き荒れるなか、ただ普通に信心深く本当に慎ましく生きてきた人たちがわけの解らない無実の罪で囚われ、死刑に処せられる。理不尽に捕らえられ断罪されて牢に入れられた人たちが死刑を免れるためには自分は悪魔と契約したと告白することしか道はない。告白し、罪の赦しを越えば神はお赦しになるというのだ。しかしそれはやってもいない罪の告白であり、自らの良心を汚して嘘をつけということだった。拒否した者が大勢いる。それでも生が、生きること、生きていることのほうが嘘を拒否して死にゆくよりもずっと尊い。それだけ人のいのちは尊く重いものだとヘイル牧師は告げた。神につかえる者としてたどりつくにはとても苦しい道だった言葉だった。深く共感した。しかし、それでもやはりここにも伝えたい者と伝わらない言葉のジレンマは存在していた。ヘイル牧師とメアリー・ウォレンはこの物語が生んだ伝えたくても伝わらない言葉の双子だ。

主役はプロクターとエリザベス、そしてアビゲイルだ。そしてメアリー・ウォレンとヘイル牧師が観客の目となる語り部だった。届かない言葉が苦しい物語だった。