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ことはみんぐ

演劇、美術、ミステリ、漫画、BL。趣味の雑感をのこすために。

鱈々 雑感

公演概要

演出:栗山民也

作:李康白

出演:藤原竜也山本裕典中村ゆり木場勝己

 

hpot.jp

観劇公演

2016年10月15日 ソワレ

天王洲銀河劇場

 

注意

  • 何の気遣いもなくネタばれしています。

 

鱈々

 

簡単なあらすじとしてはジャーンとキームという青年二人が倉庫で運ばれてきては出荷されていく箱を積み降ろしして生活しているところへミス・ダーリンという女性がキームと仲良くなって入り込み、その父親でもある荷物の運搬をしているトラック運転手もずかずか倉庫に入ってくるようになってずっと二人きりの世界だった倉庫が急に外の空気を持ち込まれ、その空気に誘われてキームがミス・ダーリンの妊娠をきっかけにダーリンと結婚するため倉庫を出ていき、ジャーンひとりが倉庫に取り残されるというものだ。

 

見終わった瞬間に浮かんできたのは???というクエスチョンマークだった。

ん?これは、いったいどういう物語だろうか????となった。

 

私は物語を読むことが好きだ。本は基本的に小説ばかりでノンフィクションはあまり読まない。唐突に自分の趣味をさらして申し訳ないのだけれど、ボーイズラブとよばれる男性どうしの恋愛や肉体的なあれやそれやを扱った小説や漫画も読む。ボーイズラブというものはたまにやおいと呼ばれたりする。やおい。つまりヤマなし、オチなし、意味なしの頭文字を取ってやおいだという。世の中の商業BLとよばれるきちんと本屋さんで売っているボーイズラブ作品のなかにもたしかにそんな作品もある。つい先日なんとなくあらすじで面白いかもしれない!と思って購入したBL漫画が個人的にやおい分類で登場人物の心の流れや恋愛感情へ至るまでの描写というものが弱く全く気持ちが盛り上がらなかった。いや、やおいの話ではない。BLを持ち出したのはこの舞台『鱈々』実は男性が男性に思いをよせる話だというふれこみだったからだが、特に『鱈々』がBLだとは感じなかった。いや、『鱈々』がBLかどうかというものも特に関係はない。なにが言いたかったかといえば私には見終わった瞬間、この舞台に物語を見いだすことが出来なかったということだ。ボーイズラブの分類であるやおいがその感覚に近かったのでBLもひとつの題材になっているという部分も含めて書いてみたのだけれど、その感覚はおそらくほんとうに意味がなかったのではない。ラスト、藤原竜也さん演じるジャーンがたったひとり残される。倉庫の中に。彼は一人残されて滂沱の涙を流し、たったひとり光を閉ざされた倉庫で箱を積む。いつものように。たった一人になっても。この倉庫から抜け出すことなく、箱を積み続ける。見終わった瞬間、箱を積むことをやめず、倉庫から出て行かなかったジャーンの決断が私にはおそらく停滞に見えた。停滞から私はオチを見つけることができなかった。最初に書いたが私は物語が好きだ。つまり起承転結がしっかりあるものがやはり理解し易い頭の構造をしている。『鱈々』をやおいのようだとは思わなかった。すなわち、ヤマなしオチなし意味なし、だとは決して思わなかった。けれど自分にとって理解のし易い作品ではないと思った。それが見終わった瞬間の???だ。

見終わった瞬間???を頭上に浮かべていた私に一緒に隣で見ていた友人がこの作品を不条理劇だと教えてくれた。すっかり忘れていたのだがそういえばそういう分類にあると前知識のなかにあった。そういえば、だ。不条理。その言葉は???しかなかった私の頭のなかに少しだけ道を見せた。

元来にぶちんなので私は見終わった瞬間は基本的にたった今みたものに対する自分の思いというものは全く浮かんで来ない。

見終わって会場を出て駅まで行く道でようやく少し頭が整理され始めた。まず最初に感じたのはこの日『鱈々』をみる前にマチネで観劇したシアターコクーンの『るつぼ』との共通性だった。

『鱈々』には悪魔というせりふが出てくる。

ミス・ダーリンというジャーンの相棒、キームを外の世界へ連れ出すことになる女性がキームに「悪魔!」と呼びかけたというのだ。

悪魔。言わずと知れたキリスト教の堕天の象徴だ。

『鱈々』は韓国の戯曲で韓国のことはドラマや映画もそれほど見たことがなく、K-POPにも今までほぼ興味なく来たのでよくは知らない。けれど、かなりキリスト教が根ざした土地柄だというイメージがある。「悪魔」という言葉とそこで宗教がリンクした。

『るつぼ』のことは実際ここでは関係ないので特に深くは触れないが『るつぼ』は魔女裁判の話で悪魔と契約したとして無実の罪で大勢の人たちが裁かれる話だった。

ミス・ダーリンの「悪魔!」がたしかに『るつぼ』とのリンクを意識させた最初のきっかけだったが、実際にリンクした理由は「悪魔」という単語のためではなかった。

 

私は『鱈々』のジャーンのなかに宗教を見て、『るつぼ』で感じた人を救うはずの宗教の矛盾を感じた。

 

『鱈々』には倉庫の外に出てもまた新しい倉庫が待ってるだけだというようなせりふがあった。ある箱のなかにいる人間がその箱を飛び出したところでその外もまたもう一回り大きな箱の中でいくらもがいて外へ出たいと飛び出しても結局は壁に突き当たる。そんな表現だろうか。そのせりふを言ったのはジャーンだった。最後にたったひとり倉庫に残される方の青年だ。彼の存在が『るつぼ』で見た魔女裁判の嵐に巻き込まれ捕まって投獄され死刑を待つ人々と重なった。

箱のなかで殉じようとしているジャーンと牢獄で神に祈りながら死刑を待ち神に殉ずる人たち。

私がジャーンのなかに感じた宗教とはキリスト教という教義や戒律のある存在とは少し違う。ただ漠然とキリスト教という宗教が彼の身近にあったがために形を変えて拠り所とした箱のなかの秩序のような存在なのではないかと思った。ジャーンは頑に倉庫のなかで箱を積み続けることを大切にした。指示に従って正確に箱を積む。指示に従って正確に積んだ箱を下ろし出荷する。それ自体がまるで宗教の教義で積荷リストには正確に従うこと、箱をぞんざいに扱わないこと、ましてや箱の蓋をあけるような真似は決してしないこと、という戒律があるようだった。

倉庫のなかで完結した世界というのも宗教に感じる、特に一神教に感じる排他的なイメージと重なった。

ジャーンからすれば倉庫のなかにずかずかと入り込んできたミス・ダーリンとその父親であるトラック運転手は異教徒でさほど真面目な信徒でもないキームをあっさり改宗させようとしている存在というところだ。

 

ちなみに上記した『るつぼ』の観劇レポも上げてあるので参考までにリンクを貼っておきます。

 

kotohumming.hateblo.jp

 

さて、次に『鱈々』に対して私が考えたことはジャーンの感情だった。

彼は舞台が始まる前のふれこみにもあったが、どうやら長年一緒に倉庫で寝起きし一緒に働いているキームに思いを寄せているらしい。

思い。

それはキームに対してお金足りてる?そんな皺だらけの服じゃだめだよアイロンかけてやるよ、また二日酔いか?しょうがない鱈のスープつくってやるよ、と過剰にまるで子どもにでもするようにキームの世話を焼く姿からよく解る。

また、キームがミス・ダーリンという外の世界を連れ込んできたとき今にもずっと我慢させてきたキームが飛び出していってしまうのではないかと不安になったジャーンがキームを行かないでくれよ、と引き止める姿にも感じるものがある。

ジャーンは愛してるという言葉さえキームに与えていた。

ジャーンの気持ちとしては確かにキームは愛情の対象なのだと思う。けれどそこに恋情が含まれるのかといえばはっきりとそうは見えなかった。

最終的に私がジャーンのなかに見たキームへの愛情は自己愛が一番近かった。

キームへの施しはすべて結局自分を一人にしないための欺瞞にも感じられた。つまり、キームを大切にすることでキームへの愛情を傾けることでキーム自身を愛情というもので縛り、本当は自分たったひとりになってしまうのが怖いからいつまでも自分のそばにおいておこうとしているようだった。当人にその自覚があるようには決して見えなかったが距離を置いて見る者からすればひどく打算的だ。もちろんこんなことはあくまでもきれいごとだが、そんなものは愛ではない。ただ自分が可愛いだけだ。

しかし振り返ってみれば私にだって、いや、だれにだって打算はある。自分が可愛いからだれかを大切にして自分のことも大切にしてもらいたい。そういうふうに接してしまうこともある。打算であり、やはり欺瞞だ。それでも相手のことを決して大切ではないと思っているわけでもない。自分のことが可愛いのは確かだが、相手のことも可愛くて大切でただ一緒にいてほしいから大事にしているわけでもない。私には子どもがいないので親が子どもに感じる無償の愛というものは実際のところおそらくは解らないが、放っておいては生きていけない無力な子どもへの愛情とは違う。ここでの相手は基本的に対等な人物だ。自分がひとり食べていく分には困らないのなら相手も同じだ。向ける愛情に多少の打算や欺瞞が混じったところで不思議ではない。それのどこがいけないのだ?というところだ。

けれどジャーンに感じたのはキームの存在が見えているようで見えていない、結局はキームを通して自分のことしか見ていないとどこかで感じるような一方的な愛情だったと終わったあとに少し冷静になってから思ってしまった。

 

とはいえ、これは演技の話になるけれど、ラスト、たったひとり残されたジャーンが箱を積みながら号泣するさまには胸が痛んだ。

ぼた、ぼた、と涙が床に滴り落ちる音すら聴こえるそれは本当に哀しんでいて自己愛に根ざした身勝手な愛情などとは露とも思わなかった。

 

それにしても藤原竜也さんの最後の号泣は本当にすごかった。ぼたぼた涙が溢れる音がするほどの滂沱の涙にあてられた。

お芝居の途中で後ろを向いたときに涙と一緒に鼻水もだーっと垂れていたけれど目と鼻は繋がっているので泣くと鼻水が涙と一緒に滂沱となるのも仕方がない。それだけ本気で泣いている姿はとても美しかった。本当に美しいひとだと思った。

 

『鱈々』は見た人それぞれが感じるもので出来上がる作品だというようなことをよく聴く。

舞台上で繰り広げられることは箱を積むことを生きる糧とした青年たちのただの日常だ。その日常が突然現れるミス・ダーリンによって引っ掻き回されるのだがそれも決して普通に考えれば異常な出来事ではない。異常だと思っているとすればそれは倉庫の中から抜け出せないと思っているジャーンだけだろう。基本的には淡々とした日常が描かれるだけの話だった。これまでにミス・ダーリンのようなこの倉庫のなかにずかずか入り込んでくる人が一人としていなかったということの方が不自然でだからこそ、何年も一緒にジャーンとキームが倉庫で暮らしていたということのほうが真実ではないような感じすらする。キームはこんなことやってられない!とずっと言い続けていたし、それをジャーンは宥めてはいた。たとえ倉庫を出て行っても他に仕事を見つけるのは困難というところもあるかもしれない。それならばいくらつまらない、うんざりするような仕事でも仕事として食い扶持を稼げるのならば倉庫番を続けるのが一番安直な生き方だとそれまでは割り切っていたのかもしれない。しかし、ミス・ダーリンのような誘惑は今よりもっと若い頃のほうが強くあったのではないだろうか。この舞台の時間だけを切り取ってみるのならば違和感はないかもしれないが、この舞台の時間にたどり着くまでにも物語の中のジャーンやキームがその瞬間それこそ舞台のようにぱっと生まれたわけではないのだろうからそれまでがぐだぐだと文句を良いながらも平穏無事になにもなく本当に二人だけの閉じた世界で上手くやっていたということに違和感がある。この芝居は不条理劇だという。舞台の上で繰り広げられる物語にはそこまでの不条理感はない。しかし、舞台で見えるようになる前までの物語に思いを馳せるとかなり不条理なように思う。まさか、この『鱈々』による不条理劇とはそういうことだろうか?

まるでハイ!と手を打った瞬間に倉庫という世界が出来上がって何十年もそこにジャーンとキーム二人でいたという虚事の過去を植えつけられてその瞬間からジャーンとキームがジャーンとキームになったのではないだろうか。もしかして、このジャーンとキームはずっと倉庫番として二人で暮らしてきたということのほうが嘘だったのではないか。そんな想像すらしてしまう。

そもそもこの『鱈々』のあらすじを読んだときには不条理劇という情報をすっかり忘れ去っていたのできっと箱のなかにやばいものが入っていてなんらかの犯罪絡みな展開になるに違いない!と勝手に想像していた。上記の虚事の過去を植えつけられてという話が成立するならもしやその想像も少し話はずれているがあながち間違っていなかったりするかもしれない。いや、もちろんそんな話ではないと解っているけれど、見たものをどうとってどう想像するか観客にゆだねられる部分が大きな作品ならばそういう想像も許されるだろう。いや、そんなわけじゃないじゃん、と解ってはいるけれど。

 

私が見終わった瞬間???が浮かんで全くとらえどころがないと感じたのも上記したようにこの物語のなかに時間を感じなかったからかもしれないと観劇から二週間が経ってこれを書いているなかで思っている。過去のない人生など不条理以外のなにものでもない。過去があるから現在があって踏み出していく、あるいは時間の流れとともにやってきてしまう未来がある。過去を感じられない物語には今しかないのかもしれない。だからジャーンは一人置いてけぼりにされても一人泣きながら箱を積むのかもしれない。そしてもしかすればキームの存在も、それにまつわるミス・ダーリンやトラック運転手の存在もジャーンの夢ではないだろうか。本当は最初からたったひとり、ジャーンだけがあの倉庫にいて一歩外へ踏み出す勇気がないからか、外に踏み出していってもまた打ち当たるであろう比喩的な倉庫の壁が怖いからか、たったひとりでずっと箱の積み降ろしを続けていた。キームの存在はそんなジャーンが見た夢だ。そしてキームが倉庫を出て行く瞬間がジャーンのしあわせだった夢の終わりで箱を積みながら泣くジャーンは夢から覚めたジャーンだったのかもしれない。物語を構成するのがジャーン一人ならばこの物語はある意味、不条理を感じることなく成立する。そんなふうにも思える。

 

言葉にして書き連ねるのは難しい物語だ。物語というよりは詩に近い感覚がある。

実は個人的に最後まで読了できた詩集は宮沢賢治のもの一冊だけというていたらくで詩というものは文学のなかで一番苦手な部類だ。俳句はあまりにも短すぎてまた理解ができず、短歌はまだ馴染みがあり読むのもわりと勝手気ままに詠むのも好きだが、詩はだめだ。読んだ瞬間にどういうものだと核心をつかみ取ることも上手くできない。そもそも瞬発力が著しく低い人間なのであれこれ頭のなかでこね回してようやく答えにたどり着くため本質を短い言葉で言い表した詩には憧れても自分でどうにか出来るものではないという感覚が強い。この『鱈々』もその感覚に近いものがあった。私がなにか舞台芸術でも絵画でも小説でもそういった芸術作品に触れたとき言葉としてそれをまとめようとすればいつでも自分のなかにある材料を引っ張り出してきて自分のなかにあるなにか近いものと重ねながら読み解いていくという方法をとる。『鱈々』でもそうやって『鱈々』という作品を言葉にしてみようとしてきた。けれど結局、この物語がどういうものだったのかいくら言葉を費やしても上手く表現は出来ていない。

言うなればこの作品はこうしてずっと考えさせる物語のような気がする。

面白かった!単純にそう思える作品ではなかった。面白いかな??と首を傾げる部分もいまだにある。おそらくそれは私の頭の構造の問題だと思う。物語を読み解くことのほうが向いているのだ。詩を読み解くことは難しい。

 

また回数を重ねることで見えてくる別のものがあるだろうか。

『鱈々』はまだ地方公演も観劇予定でいるのでそのあと自分の感想がどう変わるかに興味がある。

 

そういえば、一つ最大の疑問があったことを思い出した。

この芝居、倉庫番の青年二人にはジャーンとキームという名前がきちんとつけられている。しかし、劇中、二人とも互いに互いの名を呼ぶシーンが一つもなかったのだ。私が見逃しただけだろうか?しかしいつ名前を呼ぶだろうかと考えながら見ていた部分があったので見逃しや聞き逃しがあったわけではないと思うのだがどうだろうか。

戯曲はまだ未読なのでどうかよく解らないが、ジャーン、キームと名を与えられているにも関わらず作中でその名が使われることが一度もないというのはとても不思議だ。名は呼ばれなければあってもなくても同じだ。呼ばれないのならば戯曲上、青年1、青年2で構わない。それでもジャーンとキームには名前が与えられた。意味があるのか、青年1、2では味気ないと作者が思ったのか。これはとても不思議だった。

 

さて、物語のこと、全体の印象ばかり書いてきたが、演者のみなさんにも触れておきたい。

私が『鱈々』をみることにしたのは、というか『鱈々』という舞台が上演されると知ったのはジャーン役が藤原竜也さんだったからだ。

なんでしょうかね、あの可愛い生きものは。演技に対して私がとやかくいうことはないので藤原さんがあまりにも可愛かったことだけは伝えておきたい。

最初、声が少し高くてなんだかわずかに掠れたような感じで、あれ?喉大丈夫かな?と思ったけれど、他の作品などでも時折そういう声も出されているし、役柄上、やさしい感じになるからそういう声なのかと納得。ジャーンはどこをどう切り取ってもやさしかった。

演者の皆さんのことを、といいつつまた逆戻りだが、やさしいからこそ自己愛に収束することの違和感、半ば反発に近いような違和感がさらに強くなるのかもしれない。

いや、それはともかく、再び戻って藤原さんのことだ。

ご本人も始まる前のインタビューなどで世話焼きおばちゃんのようだと言っていたけれど本当にそんな雰囲気だった。甲斐甲斐しくキームの世話を焼くジャーンはとても可愛らしかった。キームが去っていってしまうかもしれないと時折見せる不安げで寂しげな表情もすごくきれいだった。やっぱり藤原竜也という人は本当にとても美しいひとだ。

 

キーム役の山本裕典くん、彼もジャーンと同い年の設定なのにやや弟気質でやんちゃな感じが可愛かった。いや、かっこ良かったというべきだろうか。初めて生でお目にかかったがとてもかっこ良かった。

そして、ミス・ダーリン役の中村ゆりさん。彼女はこれまた本当に可愛かった。男をとっかえひっかえ結局、誰の子どもか解らないような妊娠をしてしまうというややはすっぱというか粗野な役だが、とてもチャーミングでジャーンを追い込みながら箱を開けさせようとするところの強引な、それでいてどこか鬼気迫るような雰囲気がとても目を惹き、とてもよかった。

木場勝己さんは、もうえらい似合っていたというのが一番の感想だ。強面のトラック運転手なんて似合わないはずがない。貫禄十分、木場さんが現れるシーンはぴりっと少し背筋が伸びる感じがした。

 

そして劇中に使われていた音楽についても少し。演出の栗山民也さんは、ピアノ曲が好きなのだろうか。7月に観劇した『母と惑星について、および自転する女たちの記録』でもやさしいメヌエットのようなピアノの小曲が使われていたが同じ曲ではないと思うのだが、同様にやさしいピアノの小曲がところどころで音楽として使われていた。それが印象的だった。

 

あとは、印象に残ったシーンについて少し。

 

ジャーンが倉庫を出てもまた倉庫があるだけというようなところ。あのシーンで倉庫を宇宙にまで押し広げるようなせりふがあったような気がする。今手もとに戯曲がないのだが腰を上げるのが面倒なのでこのままあったような気がするとして続けるが、倉庫の外にも結局倉庫があり、そのまた外にも倉庫がある。この宇宙すら倉庫のようなもの、というようなそんな雰囲気のせりふだったと思う。そのせりふを口にしたのは、ジャーンでどうせこの倉庫を出て行ったところでまた倉庫のなかにいると気づくのがオチだという意味にあったのだと思う。けれど、これを聞いたとき私はその逆に感じた。なるほど、倉庫の外にはまた倉庫があるようなもの。それはきっと確かだ。どこへ行っても結局、壁はどこにでもある。新しい世界に出て行ってもそこでもまたここは窮屈だと思うようになるかもしれない。生きていれば結構そんなものだと思う。けれど、その倉庫が宇宙にまで広がるならとても壮大だ。倉庫の壁を一つ一つたたき壊して宇宙にまでたどり着けるのならそれはとてつもなく壮大でなんだかとても希望に溢れている。自分に置き換えてみて出来るかと考えたならばおそらくは出来ないだろうし、私は基本的に臆病なのでジャーンに近い方の選択をするような気がする。しかし、これは舞台というまあ、夢のようなものだ。現実の世界とは違うもう一つの世界に遊んでいるのならば壮大な夢を見るのは悪くない。ジャーンからすればキームを引き止めようとしていたのだろう。しかし、私からすればむしろ引き止めるには逆効果なのでは?という感じがした。この上手くない口車の効果が面白いなと思った。

 

次に、上記もしたが、ミス・ダーリンが勝手に箱を開けてしまうシーン。このときのミス・ダーリンの鬼気迫る雰囲気がとても良かった。彼女は箱に入っていた部品がどこにでもあるようなただの金属の部品ではなく、世界を滅ぼす爆弾の部品かもしれないといっていた。彼女のなかにはあらたないのちが宿っているけれど、破滅願望が抑えきれず存在しているのだろうか。爆弾の部品かは解らない。解らないけれど、そう信じるのなら箱の中身はきっと爆弾の部品で構わない。そしていつかはそれで世界が滅ぶのかもしれない。そういうふうに思わせる力のあるシーンだった。とても良かった。

 

次回は地方公演の最初、上田公演を観劇する予定でいる。そのときにはなにを思うのかあと一週間、楽しみにしている。次は戯曲を読んでから見ようと思っている。

難しい戯曲だが、どう読み解けば良いのか考えることはとても楽しい。

それにしても藤原さんのラストの涙は本当に美しく、とても切なかった。