ことはみんぐ

演劇、美術、ミステリ、漫画、BL。趣味の雑感。

ウーマン・イン・ブラック①(過去ログ)

公演概要

演出:ロビン・ハフォード

原作:スーザン・ヒル

脚本:スティーブン・マラトレット

訳:小田島恒志

出演:岡田将生、勝村正信

敬称略

www.parco-play.com

 

以下、2015年9月にTwitterに掲載した観劇レポとなります。

 

観劇公演

2015年8月14日マチネ

パルコ劇場

 

 注意

  • 何の気遣いもなくネタばれしています。
  • 覚えていることを詰め込んだストーリー覚書としての側面が強いです。
  • 東京、名古屋の2公演を観劇したため基本的には東京公演での雑感ですが、名古屋公演観劇後に仕上げたので多少名古屋での覚書も入ります。

 

まずは声だ。勝村さん扮するおどおどしてやさしげなキップスが朗読の練習をしているところへ上手の後ろ(劇場のまんなかの通路)からいきなりの発声。でかい!声が!思わず後ろを振り向いた。役者役の岡田将生はダメ出ししながら降りてきて舞台に上がるわけだけどもう最初から声がほんと大きくてそして通る!すごく!パルコ劇場は小さいから余裕だ。キップスがもそもそ小さい声、とはいえ、距離感からか私ははっきり聴こえたし、小声で話しても劇場の隅々まで小声という声を届かせることができる技術みたいなものが勝村さんにはしっかり出来ているんだろうなとも思った。ハムレット2015でフォーティンブラスがすごく小声だったことが話題になったけれどそれに対して演じていた内田健司くんは小声でもちゃんと届かせる技術が必要だといったことをどこかで話していてそれを演出の蜷川さんに求められているというようなことだったけれど、勝村さんは蜷川さんとずっと一緒にやっていらしたということでそういう繋がりを思い出してやはりこのひとはすごい人かもしれないと思った。さて話はそれたけれど、岡田の声だ。本当によく通る。もともとあの声が私はすごく好きでこういっては悪いが声だけでもいいとちょっと思っている。ナレーションの仕事をしたらずっと聴いていたい。ネイチャー系とかが良いと思う。個人的な興味の問題で映像にそこまで興味を示さないだろうから声だけ聴いていられる。とまあそれはともかく、演技のなかで叫ぶシーンがかなりある。私は上手の端で見ていたので岡田はよく下手側にいてかなりの距離があるのにうるさいくらいに本当に声が大きくてよく通る。あれは、響くというタイプの声ではなくて通るんだと思う。太い、わけでもない。男性の声というものは太いタイプの声で叫ばれると個人的に恐怖というかどうしても身がすくむ感覚になるのだけれどそういう感覚を与える声ではない。太くはなく、なんというか張りのある声だ。だからだろうか、うまく空気の振動を捉えて遠くへ飛ばすことが出来るような感じがした。ただ、開幕してすぐだけれど初日からすぐの月曜日あたりからあまり声の調子はよくなかったということで、本当によく通るし、声が出ていないということは全くなかったのだけど少しざらっとした感覚のある声質になっていたことは残念だった。あれだけ叫んでいてよく声がつぶれないものだと思うくらいに叫んでいるのでそのわりにはまともといえばまともだけれどくっきりとまっさらにクリアな声をしていたかと言われればそうとはいえなかった。けれど聞き苦しい感覚は全くない。ざらっとしてはいても良い声だった。映像で聴く声と同じだけれどやはり生で聴くのはもっといいと思った。ただし一点、後半でせりふの最後が完全に掠れて消えたところが一箇所だけあってそれは残念だった。やはり喉の調子が本調子ではないようだ。まだまだ長いので復調することを願いたい。次は名古屋で下手の席で見るのでたぶん目の前でしゃべることが多くなるはずなので発声をまっすぐに聴けるのは本当に楽しみだ。

 

 

話を戻そう。登場時、岡田はキップスに雇われた役者の役でキップスと比べれば親子ほどに年が離れているのだが、もともとキップスが演技……、ではなく、人前でうまく話すためのレッスンをしてほしいと雇ったため、いうなれば岡田は勝村演じるキップスの先生のような立場にあるからだろうか、かなり尊大というか、自信満々で上からな態度でキップスに接する。それが、偉そうなはずなのだがなぜか愛嬌がありすごく可愛かった。ちょこちょこキャップを思い出したけれどあの人はどれだけ上からで生意気そうでもそれが不愉快な雰囲気にならないから不思議と言えば不思議だ。基本的に顔が笑っているからかもしれない。それが皮肉な笑みじゃなく楽しそうな笑みだからだろうか。いや、もしかすればこれがよく共演者に言われている人柄というものなのかもしれない。みんな騙されているんじゃ……←(別に岡田に恨みはないw

 

そして本当に思ったのが舞台の上でなんの不自由もなさそうによく動く肉体がとても卑怯だということだった。決して悪い意味ではない。けれど、岡田将生は本当にずるいからだをしている。私は、芝居をしている、映像や写真を撮られていると解った状態の彼の顔を美しいなと思うことはたしかにあるがその程度で、本当はそれほど顔が好きなわけでもない。なにしろ声が一番好きだからだ。あとパーツならば耳と手だ。それはともかく、顔だ。いや、からだだ。顔の表情に注目することも少しはあったが、4列目でかなり前の方の席ではあったけれどいかんせん上手の一番端というほんとうに端っこの席で見たのでそれなりに距離がある。勝村さんはおもに上手側にいてだいたい目の前でしゃべってくれていたけれど岡田が目の前にくることはすくなかった。目の前に来ても勝村さんのうしろでちょっと私のみた位置からは立ち位置が被ったりして見えにくかったりということもあった。だから、表情を鮮やかに切り取るような印象をあまり持たなかっただけなのか、もともと人の顔を認識する能力が低いのでそのせいなのかは解らないが、なにしろ顔よりもからだの動きというものに目がいった。まず背が高い。180センチあるというのだからそれはたしかにそうだろう。けれど映像や写真の印象よりもかなり長身に感じた。勝村さんとの対比というものもあるのかもしれない。勝村さんと身長差がかなりあって驚いた。むしろ勝村さんはもう少し高いイメージがあったからだ。もしくは岡田がもう少し低いイメージを持っていたのかもしれない。背が高く、手足が長い。とくに腕だ。腕が大きく動く様はなぜだろうかとてもよかった。いや、色気があったというのかもしれない。登場シーンからしばらくは上記した通り可愛いという印象だった。けれど物語がすすみ、可愛さもあるがたぶん色気を少しずつ意識するようになったと思う。なんだろうか、艶、というものだろうか。それはまあともかくここまで観劇後の帰りのバス四時間のなかで書いてきたメモをひとつも拾わずに書いているのでちょっとそろそろメモを参考にしながら単なる印象ではない感想を。

 

もともと原作は読んでからの観劇だったのでオールドキップスの最初のせりふからああ、結構そのままなんだなという印象だった。長い廊下に引っかかるかんじではなかったけれど。にしてもやっぱり生の声はいい。今、書きながら頭のなかで岡田将生がキップスの書いた話を語り出すシーンが再生されて手が止まった。あの声も卑怯だ。しかし声とからだに執着していると話が進まないので頭のなかの声はしばし放っておかなければ。そう、原作だ。原作は、オールドキップスひとりの物語だ。役者は登場しない。キップスがかつて経験した恐ろしく哀しいできごとを振り返って区切りをつけ物語のなかに封印してしまうためにすべてをしたためると決め、そしてひとつの物語を紙の上に語りだす。しかし、舞台は違う。小説では紙の上に語り封印されたはずの物語を舞台のオールドキップスは家族の前で読んで聴かせようというのだ。そのために雇われたのが若い役者だ。繰り返しになるが役者にキップスは人前で語るための手ほどきを頼んだようだった。しかし、役者はただ語るだけでなく、キップスがしたためた物語を芝居にして披露させようと考える。原作は実をいうと読むぶんにはさくさく読めてかなり読みやすくぱぱっと読める。けれど、実はさくさく読めるわりにぐいぐい物語に引っ張られて読み進めるというわけではない。実はさほど面白いと思えなかったのだ。けれど、舞台は面白かった。いや、怖かったし、哀しい物語だ。でも面白かった。そして、原作は本当に後味が悪い。物語は舞台も同じで舞台で着地した場所と小説で着地した場所は同じだ。ただし、舞台には役者というもうひとり小説にはいない人物が登場する。その役者が入ることで舞台はもうひとつさらに先の着地点が用意されるわけだ。それが大きな違いなのだけれどその違いが小説を読み終えたときの印象と舞台を見終わったときの印象では後者のほうがなぜかいやな感じがしない。小説を読んだあと本当に読後感が嫌だった。ラスト、かつてキップスの身に起きた本当に哀しいできごとが語られる。キップスは最初の妻とそのあいだに授かった息子を事故でなくす。それはキップスがかつてかかわってしまった亡霊がキップスにかけた呪いだった。キップスは亡霊が復讐を遂げたのだという。しかし、小説ではそこで終わる物語が舞台ではそうはいかない。なぜなら、役者にもまだ幼い娘がいるからだ。キップスに呪いをかけた亡霊はあらわれると必ず子どもが死ぬのだという。そしてキップスが書き上げた物語を芝居に仕立てていく稽古の途中、現れる黒い服の女。役者はその女をキップスが用意したサプライズなのだと思い込む。もう一度言う、亡霊があらわれると子どもが必ず死ぬ。舞台は黒い服の女がサプライズの女優ではないことを教えて幕を下ろす。いや、実際には幕は降りてこないけれど。つまり、キップスが体験したことを効果音のスタッフしかいない劇場で芝居仕立てで語り過去から呼び寄せた亡霊に今度は役者が呪われるのだ。呪われるのは同じだ。しかし、舞台はそこで幕切れとなる。その後本当に役者が呪われたのか、亡霊にはまだ亡霊としての効力がのこっているのかそれは誰にも解らない。おそらくはその余韻が重要なのだろう。きっと狙いとしては観客がさらに役者に訪れるであろう悲劇を予想して薄ら寒くなるということを期待しているのだろう。そういう描き方はより恐怖を増幅させる。サイトやフライヤーでカーテンコールはしないでください、とラストに待ち構えている恐怖を煽るような雰囲気を出していたのもそういうことだろうか。いや、ほんとにラスト、カテコのあとにあの黒い女が舞台の上部に浮かび上がるようにそっと姿を見せるからカテコしたらあいつが降りてくるぞ!ということでもあるかもしれないけれど。それにそれもあるからこそ不気味で、怖いけれど観劇後に胸が悪くなるような気持ち悪さはなかった。小説の読後感は本当に悪くてそれはキップスの最初の妻と子どもがひどい事故で死んだその描写に由来するのだが、舞台ではそこまででひょっとしたら役者にも同じ悲劇が訪れるかもしれませんよと言って終わるが役者自身にはまだ悲劇は訪れていない。私はたぶん意識的にそこでストップをかけた。さらに想像を広げることが演出の意図だと思う。でもその先を考えてしまっては本を読んだときの二の舞になることは明らかで想像力にブレーキをかけた。いや、想像はした。しかしあまり感情移入はしなかった。それはそれで個人の差配というか、どこまでが許容の範囲か自分で決められるのだからより怖いと思うひともいていいし、私のようにブレーキを踏んでもいいのだと思う。しかしより怖いほうへと想像して浸るほうが面白いというか、正しいような気はしたけれど。でもできなかった。カテコになって拍手をして気持ちを切り替えた。残った印象は怖い!でも面白い!!だ。物語を一本体験したそのあとの高揚感がちゃんと気持ちのなかにあって打ちのめされて終わるよりは良かったなと今も思っている。
それにしても回りくどくてしつこくて困ったものだ。もう少し簡潔にかけないかと思うがそれがなかなか難しい。私のレポはひどいものだが、舞台のシナリオはほんとうによかった。小説よりも面白いと思わせ、入り組んだ形をとっているが実に簡潔だ。二時間の舞台だが、特に後半は予定時間では五十五分はあるはずなのだが三十分もなかったような体感だった。本当にあっという間だ。それだけスマートに話は進み、きちんと観客を惹きつけているということなのだと思う。そしてそのスピーディな感じが見終わったあとの高揚感にも繋がっていると思った。

 

さてそろそろ流れを追った方がいいだろうか。

前半はかなり笑いがある。恐さよりも笑いだ。オールドキップスが頑に演技ではなくあくまでも話をするのだと言い張りながら役者は芝居仕立てに誘導していく。このときはまだ役者は役者でキップスもキップスだ。けれど、最初のモノローグが終わって話が過去へ飛ぶ最初のシーン。役者はかつてのキップス、ヤングキップスを演じる。そしてキップスはかつて自分が出会った人たちをすべて演じていく。その芝居にちゃんとキップスが入るシーンだ。事務机の前に座ったキップスのかつての上司を演じるキップスは初めは全く自信もなく演技などどうやっていいかすら解らない。こんな感じはどうかと役者がまずはやってみせる。上司の特徴を出すためにちょっと偉そうに机に足を乗せたりしてまずは演じてみせる。

 

ちなみにこのシーン、かなり生意気な岡田がすごく可愛かったのと足の長さを存分に発揮してたいたことは付け足しておく。それを受けて勝村さんは自分の足が短いとわざと強調するようにうまく机に足をのせられないような動きをしてこのあたりは終始コミカルだ。ついでにいうとたしかこの辺で岡田はこの日最初の大噛みをした。ワンフレーズを完全に二度言った。前評判としておもに初日の芝居がかなり良く噛むことも一度の甘噛みだけでしかもそれも演技だった可能性すらあるという話だったため、ん?話が違うぞと思ったことは確かだがそれほど気にはならなかった。ただ噛むのが三、四回あったので最後のほうはちょっと大丈夫か?と思わなくもなかった。岡田の役は役者で芝居のプロだ。対して勝村さんは素人の役ということになる。もちろんハードルが高いのは岡田のほうだが、そこはせりふを噛む数が多ければ多いほど説得力が落ちるのも確かなのでやはりもう少し頑張ってほしい。まあ今回がたまたまで噛んでばかりということもないとは思うけれど。

 

さて話を戻すと、そう、キップスがかつての上司を演じるシーン。ここで役者はキップスに小道具として眼鏡を渡す。この瞬間からキップスが芝居に入り始める。芝居が止まり素に戻ると途端自信なくやはり私にはできないなどと口走ったりするが、全くそんなことはない。それを役者はとても楽しげに見ている。キップスが芝居に入り込んでいくさまが面白いのだろう。そして、どんどん役に入るキップスは古畑任三郎のモノマネやキャラの特色を出したけったいな癖(事務所の助手トームズ氏が二分に一回?二十分に一回?二十秒に一回?しているというえらく長く大きな音を立てて洟をすすること)を恥ずかしげもなくやり、観客もどっと笑う。場面によっては役者を演じている岡田も笑わされていて、いや、そこはちょっと笑いすぎかもよ?と思ったシーンもあった。(モノマネの直後あたり)

 

芝居は観客の笑いを誘いながら順調に進み、舞台はとある田舎町に移る。そこが悲劇の舞台だ。そもそもキップスは弁護士で上司に言われその片田舎で暮らしていた老婦人が亡くなったため遺産整理のために派遣されたのだ。
この辺りからだろうか。これは、実際にはどこかの劇場を借りて役者とその手ほどきをうけている素人が、かつてあった出来事を物語とした話を一本の芝居に作っていく稽古の模様を描いている。しかし、稽古の体をとりながら少しずつ本当に過去へと時間が遡り、オールドキップスは語りやかつて彼自身が出会った人々に、役者は演じているはずのヤングキップスになっていく。途中まではそれでも芝居がしばしば止まり間隙が入る。だがどんどんそのあわいは曖昧になっていく。それは恐怖へと徐々に足を踏み入れていく作業だ。彼らが演じているこの話はたしかに芝居だ。しかし、この話を書いたのは舞台の上でまさに演じているオールドキップス自身であり、その物語はただの空想ではない。ちゃんと今彼らがいるその劇場とも繋がっている同じ世界でかつてもう遠い昔に起こった現実の話だ。

 

これがまたこんがらがるところだ。舞台の上で繰り広げられるもうひとつの物語は現実にあったまさに事実だがそれを見ている本物の観客、つまり私たちにとっては結局想像の産物だ。しかし舞台の上ではそれは過去と地続きにある現実の物語でこの見ている私たちと舞台の上の異空間がなんだか繋がっているようで繋がっていないもどかしさみたいなものをたまに意識させられてそれがこの話をより複雑な構造にしているような気がした。とまあ、そんな認識を、二人芝居を標榜しているにも関わらずちょっとそれ反則でしょ??と言いたくなる驚きの演出によってまざまざと突きつけられる。

 

キップスが上司に言われた通り、老婦人の葬儀に参列したそのシーンだ。
そのシーンに入る少し前に芝居をしているという舞台上の日付が新しくなる。これまで何日かにわけて芝居を作ってきていたのだが、上記のシーンを稽古する前日キップスは、明日は驚かせてあげますと役者にいって意気揚々帰っていく。役者はその前振りをもちろん覚えている。そして葬儀のシーンだ。まずは観客席がざわつく。私が座っていたのは上手のサイドブロックだ。その後方から突如黒い服の女が現れる。ざわつく観客につられ背後をふりかえればなんだかすご勢い(いや、実際には走ったりしてはいなかったと思うのだけどなんだがすごく素早かった印象がある)で黒い女が上の方から降りてきた。役者が登場したルートと同じだ。上手のサイドブロックとセンターブロックのあいだの通路を通って舞台の真ん中に据えられている階段から舞台に上る。それを見た瞬間の役者は前日のシーンのキップスの前振りを思い浮かべる。驚かせるとはつまりこの女優を用意することなのか、と。その表情には驚きがあるだけでみじんも恐怖を感じさせない。けれどもちろん、そうではないのだ。ちょっとまってよ二人芝居でしょ?聴いてないから!なんなのその怖いの!!!という感じでぞわっと鳥肌が立って本当はそれどころではなかったけれど役者はなんだかわくわくというかにやにやというかどこか楽しげにしていたように思う。しかしそれが当然伏線だ。役者は黒い服の女がキップスの用意した女優だと疑ってもいない。それを違いますよとキップスが否定するのはラストのラストだ。観客にキップスに訪れた悲劇を語り終えたのち、役者はふいに自らに降り掛かった呪いの存在を知る。やはりこうして書いているとたしかに怖い。心のなかでストップもかけたくなるというものだ。これ以上の悲劇は本当に勘弁してほしい。とまあ、それはともかく、三人目の登場である。あれはなんだ。ここからどんどん怖い方向へ動いていった。まずなにが怖いかといえば音だ。馬車の音、悲鳴、そしてまた馬車の音、悲鳴。耳をつんざく悲鳴になんどびくっとからだを揺らしただろうか。良かった本当に端っこの席でお隣の方には迷惑をかけたかもしれないが片方だけだ。片側はだれもいない。いや、本当にいなかったろうか……。……い、いなかったけど。苦笑。
この話は地続きにある。かつてキップスが経験した恐ろしい出来事を語っているのだ。それをつい忘れそうになるが決して過去と現在は別物ではない。舞台で演じられる劇中劇はたしかに現在ではないがこの世界でかつて起きたことだ。その紛れもない一本の線が恐怖を引っ張ってくる。本物のキップスがキップスを演じないこんがらがった設定だが地続きだということだけは劇中劇をみていると忘れてしまいがちでも決して忘れてはいけないのだ。

 

ヤングキップスは葬儀の翌日には上司から依頼された老婦人の屋敷の片付けに赴く。
ここで登場するのがケクウィックだ。忘れてはならないケクウィックだ。もちろん演じるのはオールドキップス、つまり勝村さんだ。このケクウィックが登場した瞬間思わず目を見開いた。ケクウィックでしかなかったからだ。まっっっっっっっっっったく勝村さんの気配がなかった。私が読んだ本のなかのケクウィックでもあった。小説版のほうを読みながら頭のなかで再生されていたケクウィックそのもので本当に全くなんの違和感もなかった。この瞬間、私はこの人が本当にすごい役者なのだと知った。ただの面白いおじさんじゃない。いや、そんなただの面白いおじさんがこんなに長年この世界で活躍しているはずがないから当然だが、本当にこの人はすごいと思った。物語が劇中劇に切り替わった瞬間にはもう完璧にケクウィックでほぼしゃべりもしないがケクウィックだった。その存在そのものが。ケクウィックは馬車でヤングキップスを老婦人の館へ案内してくれる人だ。寡黙で帽子を深く被っていて表情も解らない。それでもケクウィックはケクウィックでそのまとう過去に裏打ちされた空気の重さまで完璧に表現されていた。勝村政信という人が本当にすごかった。

 

ちなみに私が見ていた上手側は勝村側で基本的に勝村さんは私のほぼ目の前にずっといて語っていた。ケクウィックで圧倒されて以来将生のことも忘れてガン見である。いや、将生もちゃんと見てたけど。たぶん←

 

と、ここで、ちょっと気になったことがあったのだけど。

まず舞台装置の説明から。

舞台は三層構造だった。基本的に役者が演技をする一番前のステージ部分。その奥に薄い透け透けのカーテンが引いてあって舞台がしきられている。カーテンの後ろはのちに出てくる子供部屋の内装になっていてそこに布をかぶせることで墓地になったりする。そしてさらにその奥に階段が設営されている。階段は老婦人の屋敷の階段だ。階段の出番はまだ先だ。ここで使われるのは墓地の設定の二層目だ。老婦人の館に初めてきたヤングキップスはとりあえず屋敷の周辺を散策する。と、ここでもまた黒い服の女の登場だ。初日は数時間の滞在で馬車で送ってくれたケクウィックは待っててもいいがというキップスの提案をすぐに馬車を引き返させることで答え、さっさと舞台からはけてしまう。つまりこのとき、舞台の上にはヤングキップスただひとりだ。ケクウィックを演じていたオールドキップスはいない。そう、黒い女が出現してもそれを目にしているのはやはり役者だけなのだ。ヤングキップスを演じている役者は黒い女の出現をもはや予定調和と思っている。オールドキップスが用意した女優なのだとその存在を疑ってもいない。散策をするヤングキップスは舞台の二層目、カーテンの向こう側に回る。墓地の石の読めない名前を見ながら視界を横切った黒い女を追うように上手から下手へ足を進める。そのときだ。ヤングキップスの足もとからふわりと蝶が飛び上がった。いや、私の認識では蝶ではなく蛾だったのだけれどあれは小道具というかそういうものの一種なのだろうか?それともたまたま本物がそこにいて照明を受けて影がカーテンに映ったのだろうか?ほんの数秒、ひらりと飛び上がって落ちてそれだけだったけれどなんだが印象的で気になってしまった。他の日に観劇された方はどうだったのだろう?たまたまなんだろうか。

まあ、蛾がいようがいまいが話には何の関係もない、はずだ。でも気になった。違和感だったからか。いや、合っていると思った、場面には。でも蛾がいるのも変かな、と。

 

そしてもうひとつ、舞台装置について。
最初、舞台には上手側の端から一メートルくらいだろうか、幕がかかっている。その後ろの装置が見えないようになっているのだ。まだ開演前それを眺めながらもしかしてこの席見切れなのかな?と思ったりした。しかし、そういうことではなかった。あの幕はその後ろにあるものを観客の視界に入れないためにあったのだ。それは、扉だった。館にある開かずの間の扉だ。館に入ったヤングキップスがその扉の前に来て扉を開けようとする。しかし、このときは開かない。(ついでにここが扉にすがってヤングキップスが号泣するシーン。直前にキャー!が入ったはず)開かずの間だからだ。けれどそのシーンまでそこに扉があることに全く気づかなかった。幕がいつ引かれたのはわたしの記憶にはない。いきなり、本当に唐突に扉が現れてすごく驚いた。なにしろその扉はやばい扉だと原作を読んでいて解っていたからだ。だから急に扉が現れて本当に驚いた。あ、これやばいな。と普通に思った。

 

と、まあそれはともかく物語は前半の山場に差しかかる。

ケクウィックが迎えにこなければ帰れないということもないのだが、屋敷は海に面していて潮が満ちると街へ戻る道が水没することになっている。潮が満ちてしまえば屋敷のある場所に閉じ込められるわけだ。キップスは潮が満ちているわけでもなく迎えがくる前に街へ向かって歩き出してしまう。どうせ一本道だ。途中で拾ってもらえるだろうというわけだ。黒い女に出くわしてちょっと怖くなったのだったっけ?勝手にあるきだした経緯は忘れてしまったので名古屋後の追記:とりあえず館にきて散策して墓地でまた黒い服の女に出会ってそれがやっぱりやばい存在なのだと感じ取ったヤングキップスは館に戻りすべての明かりをつけて回る。そんななか開かずの間の前にたどり着き、そこが開かないことを知る。そして悲鳴だ。女性のキャー!!という悲鳴。それを聴いてさすがに泣きわめきながら扉にすがるように膝から崩れ落ちてしまうヤングキップス。で、こんなところにはいられない!となって迎えがこないうちに町へと戻ろうとする。どうせ一本道だからと。

しかし、突如満ちてくる霧だ。舞台の上にはちゃんとスモークもたかれる。どんどん湧いてくるスモーク。それはキップスが街へ来る途中の汽車で乗り合わせた街の有力者であるデイリー氏が車内で教えてくれていた海の霧、海霧だ。視界は全く利かなくなる。舞台上にはスモークがたかれる。そしてそこへ響く馬車の音。迎えが来たと安堵する。しかしそれは突如切迫したロバのいななきに変わり複数の人たちがなにかを言い合っている声が聴こえさらに女性の鋭い悲鳴が響き渡る。なにが起きたのか。ヤングキップスは恐怖に打ち震えた。馬車の音はつまり迎えにきてくれたケクウィックが操る馬車のはずだ。しかしその馬車は館へと続く一本道の脇にある沼地に飲み込まれてしまった。そういう音だった。ケクウィックが危ない!助けなければ!だが視界は全く利かない。ヤングキップスにできたことは一本道を自分の残してきた足跡を追って戻ることだけだった。ケクウィックが…!ケクウィックが…!見殺しにしてしまった。そう思った。打ち拉がれたヤングキップスは叫ぶ。全身全霊で叫ぶ。恐怖の叫びだ。それはもはや劇中劇を演じる演技には見えない。そう思わせるほど真に迫っていた。役者はこの時点ですでに ヤングキップスであり、役者ではないのかもしれない。そんなふうにおもわせた。

や、ほんとここすごいんだよ。岡田はほんとそれだけ叫んでよくまともに喉を潰さずに済むなと思うほど全編でよく叫んでいた。ここでも恐怖に打ち拉がれて叫ぶんだけど本当に迫真という感じだった。見ているこっちが怖くなる。

しかし、だ。この時点で役者はもうヤングキップスに乗っ取られているのかなと思ったけれど、次のシーンで打ち拉がれる不動産屋のジェロームさんをヤングキップスではなく役者本人が心配するシーンがあるからまだ乗っ取られてはいないらしい。ならばこの迫真の演技は役者がヤングキップスを演じる上での迫真なのだろう。頭がこんがらがってくるが迫真なのには違いない。まじでヤングキップスの怖がりようが怖い。黒い女よりも。悲鳴よりも。もちろん、キャー!という女性の悲鳴が響く度にからだが本当にびくっとなるくらいそっちも怖い。脅かし系は昔から苦手だ。まじで泣くぞ!と思いながら多少恨みがましく舞台を見つめた。舞台のほぼ中央の客席のすぐそばで打ち拉がれるヤングキップス。そこへ沼に引きずり込まれたはずのケクウィックが迎えにくる。ケクウィックが生きている。なんの問題もなさそうに。その瞬間、あれがなんだったのかヤングキップスは理解することになる。そう、聴こえるはずのない音を聴き、聴こえるはずのない声を聴いたのだと。

馬車はステージにおかれたベッドにも書類入れにも机にもなる大きいかごだ。ヤングキップスがそのかごに座るか座らないかのタイミングでケクウィックは馬車を走らせる。

ここで少し、岡田のからだが傾いで勝村さんによりかかるみたいな動きが入る。馬車の急発進だ。なんというかそういう小さな動きがまた切迫感を与えて印象に残った。まあつまりよろってなる仕種が可愛いとそういうことでもある。
そしてやはりここでも勝村さんのケクウィックがすごかった。ケクウィックになっているときの勝村さんは本当にケクウィックでしかない。ほぼ表情は見えない。けれど表情なんていう小さな演技は関係なかった。存在そのものがケクウィックだからだ。ケクウィックが感じている忌まわしさ、恐怖そういうものがすごく静かな雰囲気のなかにちゃんと漂っていてそれが実に不気味なのだ。あ。これやばいんだな。て、ちゃんと伝わってきた。

 

そして次のシーン。一度町へ帰ったキップスは不動産屋のジェローム氏のところへ助手を手配してほしいと頼みにいく。このシーンも怖い。別に脅かされるからではない。ジェロームの怯え具合が怖いのだ。亡くなった婦人の館周辺で黒い女を見て、さらにその後どう考えても現実ではない馬車の事故の音を聴いてヤングキップスはもうあの場所で起こっていることが現実を超えた現象だと解っている。だから助手がほしいといいながらその実、あの女の正体をジェロームから聞き出そうと高圧的に迫る。けれどそのときのジェロームの怯え具合は尋常ではない。ジェロームを演じるのはオールドキップスだ。このときオールドキップスはジェロームでありながら、かつてこの劇中劇の時系列ではさらにあとのことになる自らの経験さえ胸のうちによみがえってその哀しみもないまぜとなって怯えるのだろう。あまりの怯えようだ。役者はさきほどの迫真などころっと忘れて役者に戻り、床にうずくまって泣いているようなオールドキップスに思わずだいじょうぶかと伺いを立てる。ここで一瞬 劇中劇と劇中の現実とか軽く交錯して役者が役者に戻ることでひとつ前の館のシーンでの絶叫と迫真の演技がすでにヤングキップスが乗り移っているわけではなくやはり演技なのだと知らしめる。けれど怯えをなんだか急に払ったジェロームに促されてシーンが移る。

(名古屋後の追記:このジェロームの事務所で助手をつけてほしいとヤングキップスが迫るシーン。ジェロームの怯え具合がかなり怖いと東京では思った気がしたのだけど名古屋では案外あっさりした印象だった。引きずってはいるけれどそこまでこっちも怖くなるほどではなかったので記憶違いかもしれない。なんというか怖いというより重い雰囲気。ずーんと気持ちが沈む感じ)

そしてここでの岡田の高圧的な、言葉で追い詰めるようなせりふ回しや雰囲気がまたなんというか当人に合っている。たまにキャップを思い出すけども。
あ。ついでにいうとジェローム氏は原作によるとホレイショー・ジェロームというらしい。読んだときホレイシオ出てきた!て思ったんだよね。ハムレット。舞台のせりふにもちゃんとあったが、冒頭でハムレットの一節が引用されていたり、舞台の方ではリア王の名が上がったりさすが英国と思った。関係ないけど。

 

次はヤングキップスが町へくる途中の汽車で出会ったデイリー氏とのシーンだ。犬の登場である。もちろん犬はいない。見えない犬だ。
飼い主のデイリー氏を演じるのはオールドキップスだ。最初の仕種でどれだけ大きな犬かと見せかけておいてすごく小さい犬だと知らしめる演技が笑いを誘う。ヤングキップスが呼んでも犬がデイリー氏を離れないからだ。デイリー氏は自分が命じればちゃんとついていくというが犬がすぐにはいうことをきかない。結局犬は軽く蹴っ飛ばされてやっとヤングキップスのところへ。この辺が最後の笑いだろうか。あとは怖くなる一方だ。
ヤングキップスは犬をつれて再び館へ向かう。ちゃんと仕事をして書類を片付けながらなかなか終わらないそれに文句をたれる。そしてその夜、館で眠りにつく彼は真夜中に目を覚ます。

ついでにいうと眠りにつくシーンのベッドは馬車にもなるあの大きなかごだ。自分でクッションを近くにある椅子に積み上げて枕にしてかごに上って布団をかぶってからだを丸めてヤングキップスは眠る。あのからだには小さすぎるベッドだ。それに小さくなって眠るのはちょっとかわいかった。

そして眠るヤングキップスの眠りを妨げるごとんごとんという音が響きだす。
最初その音の正体は解らない。ヤングキップスはベッドをおり犬のスパイダーを呼ぶ。音の正体を探しまわり、舞台三層目の階段を上がるヤングキップス。階段を上って再び舞台の第一層へ戻ってきてあの扉へとたどり着く。開かずの間の扉だ。急に現れて驚いたあの扉が本領発揮である。そこは子ども部屋の扉だった。館にあるまるでたった今まで小さな子どもが遊んでいたようなけれど時間の止まった子どもの部屋だ。そしてそのなかにあった揺り椅子がごとんごとんという音の発生源だとその揺れを目にしてヤングキップスと観客は知る。

ちなみに子供部屋は第二層だ。ベッドや揺り椅子に被っていた布が取り払われ部屋のようすが薄いカーテン越しに浮かび上がる。部屋のようすを説明するのはそう、概ね私の視界の真ん中にいたオールドキップス、勝村さんだ。このあたりのシーンはヤングキップスひとりのシーンが続くため勝村さんは町の人々を演じるかわりにモノローグを語る。
ヤングキップスはいつの間にか開いていた子ども部屋に入り、モノローグに合わせておもちゃを拾い、ベッドの上のオルゴールを開ける。ノクターンの9の2。

順番が曖昧だが、一度部屋を出たヤングキップスはこのあと混沌に巻き込まれる。細かい順番はもうすでに記憶のかなただ。しかし、灯りが落ち、悲鳴が響き渡る。懐中電灯があったはずだと真っ暗になった舞台でヤングキップスがもった懐中電灯だけが劇場内を照らす。くらいからすごく眩しくてしかも悲鳴のせいでからだは強張るし、眉間に皺を立ててみていた自覚はあった。犬のスパイダーが反応する。急に飛び出していってしまうのだ。ヤングキップスはそれを追う。町へ向かう一本道の脇。沼地は迷い込めばいのちもない。スパイダーは案の定沼地にはまってもがいていた。それをヤングキップスは必死になって追い、危機一髪でスパイダーの首もとをつかみ引っ張り上げて自分も沼の脇にひっくり返った。恐ろしい馬車の音を響かせたかつての事故のようなことにならずに済んだわけだ。

そこへスパイダーの飼い主、デイリー氏が訪れる。犬を引っ張り上げて精根尽き果てたヤングキップスはひっくり返って倒れていた。デイリー氏に起こされ、もうこんなところにはいられないと促されて町に逃げ帰ることにする。デイリー氏が馬車に乗り、すぐにも出発というところで忘れ物をしたヤングキップスがまた館に戻る。そして開かずの間に吸いよせられるように再び入り、なかが荒れ果てている様を目にする。だれもここに入れるはずがない。だが室内は荒らされていて揺り椅子も倒れている。再びヤングキップスは打ちのめされ、ショックを受けたままデイリー氏の馬車で町に帰る。

(名古屋後の追記:ごとんごとんという音で目を覚ましたヤングキップスが館のなかを歩き回り開かずの間だったはずの部屋の扉が開いていることに気づきなかへ入ってからのシーン。室内でおもちゃを見て回り、まず悲鳴が響く。怖くなって部屋をでる。部屋をでたところで暗転。懐中電灯を持ってきたはずだ、と探し出して舞台の手前中央あたり、客席のすぐ近くまできて客席を照らす。照らしてるあいだにあの馬車の音と悲鳴。少し下がって自分の周囲を照らすうちにすぐ傍らに電灯を振り向けた瞬間、そこに黒い服の女の顔が浮かび上がる。かなり怖い。そのときヤングキップスは懐中電灯をほ放り投げる。明かりを失って子ども部屋にあったろうそくのことを思い出す。まずはマッチをすってまだ開いたままの扉のなかへ。子ども部屋のろうそくに火をつける。けれど安心したのも束の間またすぐにろうそくの火も消えてしまい真っ暗になる。そしてそこで響きだす、口笛の音。それを聴いたスパイダーが走りだしてしまう。追いかけるヤングキップス。しかしスパイダーはすごい勢いで沼地へとかけていく。客席に降り通路を駆け上がって客席の真ん中の通路を通ってさらに上手側の通路を下ってまた舞台に上がる。考えてみれば東京は真ん中の階段で上がり下りをしていたから上ったあとどうやってスパイダーにたどり着いたのだろうか。名古屋は上手端から上がって舞台中央まで沼にはまりそうになりながら懸命にスパイダーのところへたどり着くのを一歩一歩演じていた)

 

どうにか館から生還したヤングキップスはいったいあの館でなにがあったのかとデイリー氏に問う。そこでかつてあった悲しい事故をヤングキップスは知る。館の主であったドラブロウ夫人が養子にもらった妹の私生子が乳母と馬車の馭者を務めていたケクウィックの父親とともに館へと続く一本道を海霧に惑わされ傍らの沼に引き込まれて馬車ごと飲み込まれて亡くなったことを。あの悲鳴と馬車の音はそのときのものだ。そして館に現れる黒い服の女は実の息子を亡くした母親が病みつかれ失意と事故だったのだがそれでも恨まずにはいられない恨みのうちで亡くなったのち怨霊となったものだ。そしてヤングキップスはもうひとつこの町へ暗い影を落とす呪いの存在を知る。黒い服の女が現れると必ず子どもが不幸にも亡くなるのだ。ジェローム氏もその被害者のひとりだった。

 

そして悪夢にうなされるヤングキップス。舞台第二層では揺り椅子に軽く直立した感じで座りガンガン椅子を揺らす。やめろ、こわいだろ?ある意味ここはコミカルだ。しかし、無表情で、いや真っ白な顔はマスクなのだろうか?よくわからなかったが目や鼻、口があっても人間の顔ではなかった。それはひどくカクカクした動きのなかにあるコミカルさとは反比例して不気味で禍々しくていやな感じしかしなかった。あれはヤングキップスの悪夢に現れているだけなのだろうが実際にそこに見えていることで見る側にも心理的な不安を与えると思った。黒い女が出てきた瞬間、おいふざけんなよ二人芝居だろ!(失礼)て思ったけども、インパクトとある程度のプレッシャーというかホラーというものに求められるストレスみたいなものが適度に与えられるため演出としては驚きも込めて悪くないのかもしれない。しかし、演出というのならば犬のスパイダー方式で見ることができたならそれはそれでさらに想像力の恐怖になったのだろうなとは思った。それならば二人芝居をうたうことになんの反感もいだかれずに済む。いや、もちろんそうなると役者の負担というか、それこそ演技力というかそういったものはさらに高く要求され、また演出にもなにかもっと違う工夫が求められることになるだろうからさらに大変だとは思うがないものをあるようにみせることは演劇の醍醐味だ。芝居のなかで役者も言っている。ひとつの大きな籠が机にもなれば馬車にもなることを。ちなみに私はそういう説明的でない芝居がかなり好きだ。

(名古屋後の追記:デイリー氏の屋敷に帰ってきたキップスはデイリー氏が調べた館とドラブロウ夫人に関する報告書に目を通す。そこにはかつて館にはドラブロウ夫人の妹が未婚で生んだ私生子が養子に入っていたこと、その子がやがてドラブロウ夫人の妹にそっくりになっていき、はじめのうちは出入りをゆるされていなかった妹が徐々にドラブロウ夫人の館を出入りできるようになり、子どもがドラブロウ夫人ではなく妹に懐き始めたこと、そして妹が息子を連れ出す計画を立てたその日子ども部屋から沼を見下ろしていた妹の目の前で外出から戻ってきた息子と世話係の若い女性、そして馬車の馭者が沼に飲まれたことを知る。その馭者がケクウィックの父親で遺体は引き上げられたが馬車とロバは今も沼に沈んでいるという。そしてヤングキップスはデイリー氏から黒い服の女が現れたときなにが起きるのかを聴かされる。子どもが死ぬのだ。悲劇的な状況で。ジェロームもその被害者だった。子どもをなくしている。だから語りたがらない。実際に被害にあった人間はとくに。それらを聴いて椅子から立ち上がったヤングキップスが急にふらつき、デイリー氏のところへ倒れ込む。それを受け止めたデイリー氏がヤングキップスをもうひとつのちゃんとした椅子に座らせる。ヤングキップスはそのまま目を閉じてそして悪夢にうなされる)

 

さて、そろそろ舞台もクライマックスである。
その話をデイリーとして語るオールドキップスもまた同じ被害者だったのだ。それを語るのはヤングキップスだ。町から戻り、ロンドンで弁護士として働き当時婚約者だった女性と結婚しかわいらしい男の子を授かったヤングキップスはある日家族で公園へ遊びにいった。そしてアトラクションの馬車に妻子が乗りキップス自身はそれをみていたときだ。あの町からは遠く離れていたにもかかわらずキップスはあの黒い服の女を見た。そして次の瞬間、馬車の馬が突如いなないて突進する。無残な事故だった。可愛い息子は即死。妻はそのときの怪我がもとで半年後息を引き取った。

 

で。ここがとくに顕著だったためラストのラストで水をさして悪いが気になったことを。
ヤングキップスの語りだ。これから悲しい過去をかたろうというところだ。しかしその語り出しはなんというか哀しさとは少しばかり解離していた。少し肩をすくめてちょっとどうしようもないんだけどさ、とでもいうのだろうか多少軽妙といってもいいような感じで公園へいったくだりを語りだす。さすがに馬車の事故を語るあたりでは悲しげというかトーンを落として語っていたがその前は悲しみを決して強調しない雰囲気で語りだした。そういう演出なのだろう。必要以上に重くしないためだろうか。しかし、それが私にはなんというか違和感だった。演出なのだろう。芝居はすべて演出家の意志で進むわけではないが私がみたタイミングでもう開幕から一週間だ。演出家の意図と役者の芝居が看過できないほどずれていたら稽古も一ヶ月みっちりあったのだしさすがにダメが出されただろうし、ダメがでてさえ上手くいかなかったというならそれはそれで大変だな役者ってやつは(白目)だが演出家の意図と芝居がぴたりと合わなかったとしても許容範囲でOKをだしたならその時点でやはり演出ということになるわけで演出だとしたらなぜ語りだしが悲しみを忘れるのか意図が知りたい。とか帰りのバスで考えていたのだが、とはいえ、完全に解らない理解ができないと思ったわけでもなかった。ただ重くなりすぎないためではなくなんていうのかな?岡田演じるヤングキップスはそもそもヤングキャップを演じる役者だ。その距離感をだすためにはヤングキップスが自ら悲しい体験を語るにしては語りだしがドライに見えるようにすることでこのあとの役者本人に降りかかる呪いをより鮮烈に役者自身と結びつける効果があると思ったからだ。だからあれが演出なのだとすれば劇中劇という入れ子状態のなかではありな演出だと思う。でも違和感になったのはその語りだしの重さが私自身には軽すぎたからだろうか。あとはちょっと間が私とは上手く合わなかったということだろう。そういうものは結局好みの問題でそれぞれだといえばそうなのでそういう感覚があったということは書き留めておきたかった。

(名古屋後追記:この語り出しの軽さと笑顔については名古屋でかなり印象が変わったので詳しくは名古屋のほうのレポに。全然東京と印象が違った。断然名古屋のほうがよかった。違和感はなくなった。稽古ではなく本番で芝居を重ねていくことで変わっていくというのは本当におもしろいことだなと思った)

 

そして、今も書いたように本当のラストだ。これまで芝居仕立てで語られてきた物語はすべてキップスのものだった。しかし、ラスト役者は芝居のなかに突如現れた女の話をようやくオールドキップスに持ちかける。あれは面白い演出だった、と。前日に自分を驚かせると言ったことばの意味はあの女性を用意したことだったんですね、と。しかしオールドキップスの反応は鈍い。いや、彼には一体なにが起こったのかすぐに解ったのかもしれない。驚かせると言ったのは単にせりふを全て覚えてくるという意味だと神妙に応じる。役者の表情からは笑みが剥がれ落ちていくしかない。役者が見た女は、キップスが用意したエキストラではなく、そう、決して見てはならないものだったのだ。役者には娘がひとりいる。まだ幼い娘だ。悲劇はそこで幕を落とす。

 

あとついでにもうひとつ気になったことを。
ラスト、ヤングキップスが自分の身に起きた悲劇を語るとき黒い服の女の呪いという言葉を使う。実はそれにもすごく違和感があった。これは芝居がどうのということではなく、原作にも出てきた言葉で原作を読んだ段階からすでに違和感だったのであまり芝居とは関係のないことだけれどちょっと気になっていたので少し考えてみた。キップスは黒い服の女の恨みを買うような立場にはない。そもそもこれまで黒い服の女に呪われてきたひとたちの大多数がそんないわれのないひとたちなのだろう。しかし黒い服の女は人々を呪った。キップスに至っては町から離れ、全く縁もゆかりもないような場所にまで黒い服の女は現れてキップスに悲劇をもたらしたのだ。この唐突さが納得いかない。ホラーというものはそういうものなのだろうか。理由のない呪いだ。縁故があって恨まれて呪われるのならば理解ができる。しかし黒い服の女と呪われた人々、とくにキップスには縁故なぞない。それでも町から離れて一年以上ものちにまた突然町とは別の場所にまで現れてキップスを呪ったのだ。これは理解できない。もしかして文化的背景の違いなのだろうか。なんとなく日本での呪いは縁故があるイメージが強い。末代まで祟ってやるとか、八代先まで祟ってやるとか恨みを残して死んでいった人が鬼になって化けて出る話はその恨みを残した相手、もしくはその子孫を呪う気がする。むやみやたらと無差別に呪う場合もあるのかもしれないけれどやはり違和感がある。呪いというよりもなんというかそれこそ交通事故にでも遭ったような感覚だ。脈々と裏で繋がるものがなくひどく唐突で捉えきれない。キップスはなぜ呪われたのだろう。それが結局最後に残った謎のような気がする。そして、この縁故のない唐突さに馴染めないことがさらに本当のラスト、役者にも本物の黒い服の女が見えてしまったという呪いが降り掛かったことを知らせる部分で私自身が経験した恐怖の鈍さと繋がっているのではないだろうか。縁故がないとどれだけ呪われたんだよ!と言われても全く実感が湧かない。だから舞台の方は怖くないのかもしれない。そんなふうに思った。

 

さて。カテコ。二回。一度目は普通に。笑顔だった、と思う。二度目は出てきて客席にお辞儀。そしてなぜか勝村さんと向いあってお互いにお辞儀。なんでお互いにお辞儀?笑
しかしはにかんでて非情に可愛かった!!!!!!!!!
以上。個人的な覚え書きを兼ねた雑感。

(名古屋後追記:カテコでお互いにお辞儀したときのはにかみがたしかに東京ではすごく可愛かったけれど、だからこそこのときはまだまだなんだろうな、とあとあと思ったり。その後どうして芝居が私にとっては違和感のない方向へと動いていったのかその理由が非情に気になる。きっと岡田になんらかの心境の変化があったはずだからだ。本番を続けるうちに感情がただ抑えられなくなっていっただけなのか、それともなにかきっかけにあることでもあったのか。たとえばなんらかのアドバイスをだれかから受けたとか。もちろん演出家がいるのだから演出家からなにかいわれたのかもしれない。けれど実際なにがあったのかは見ているこっちにはわからないことでそれが本当にとても気になる。だれか何か言ったの?そしてがっつり芝居が感情過多へと移行していったのはいつなの?15日以降らしいくらいしか把握できていないのでだれかそれをおしえてくれ!←)

 

以上!長い!ずっとウーマンかかりきりだった!!!!!
今日で千秋楽だ!
さよならインブラック!
さよなら将生!
次はにーなでシェイクスピアなんでしょ?そうなんでしょ?(しつこい

つまりまた舞台に立つ彼が見たい。そう思いました。これからも本当に楽しみだ!